#280/598 ●長編 *** コメント #279 ***
★タイトル (RAD ) 06/08/25 22:59 (470)
白き翼を持つ悪魔【09】 悠木 歩
★内容 06/08/26 21:52 修正 第2版
同じ町内であっても、この辺りには滅多に来ない。ただ健司も中学生時代、テ
ニス部に籍を置いていたため、その教師の自宅は数度訪ねたことがある。多少迷
うだろうかと思われたが、予想以上スムーズに辿り着けた。
「おおっ、笠原じゃないか。どうした、久しぶりだな」
呼び鈴を押してから、幾らも待たず、気さくな男性教師が姿を現す。
「前田先生、ご無沙汰しています」
卒業後初めての対面だったが、挨拶もそこそこに健司は用件を告げた。途端に
男性教師の顔から笑顔が消え失せ、代わりに眉の間へ深い皺が刻まれる。
「おかしいな。確かに田嶋は引退後も、よく後輩の指導に顔を出してくれていた
が。今日の部活は休みだ。ほら、試験が近いだろう」
教師に言われて初めて思い出す。高校に入学してからは部活動に参加していな
かったため失念していたのだろう。あるいは優希のことで、自分が考えている以
上に混乱していたためか。通常、試験前の部活動は休みになるものだ。
「それで、警察には届けたのか?」
「あ、いえ、どうだろう」
「そうか、よし、お前、学校の様子を見に行った帰りだって言ったな。そのこと
も含めて、田嶋の親御さんには俺から電話を入れておこう。それから、校長や他
の先生方にもな」
「なにもそこまで大げさにしなくても………」
事態を楽観視していたわけではない。健司が心配したのは、無事優希が見つか
った場合、騒ぎが大きくなっていたことで、その後学校で気まずい思いをするの
ではないかと考えたのだ。
「大げさじゃない、普段の素行が悪い生徒ならともかく………いや、これは失言
だ。中学生の女の子がこの時間まで、連絡もなく、家に帰らない。まず、事件や
事故のことを考えておくべきだろう。だとしたら、対策を打つのに一秒でも早い
に越したことはない」
男性教師の言葉に、健司は自分が如何に頼りないかを思い知らせされる。もし
本当に優希の身に何かが起きたとするなら、それを探す人手も、情報も多いほう
がいいに決まっている。
男性教師は、既に受話器を手にしていた。玄関前、靴箱の上に電話機が置かれ
ており、横の壁には何か表のようなものが貼られていた。薄暗いせいもあり、は
っきりとは見て取れないが、男性教師の受け持ち生徒及び、テニス部部員の連絡
先が記されているようだ。
「もしもし田嶋さんのお宅でしょうか? わたくし、………中学の教師でテニス
部の顧問をしております前田です。あ、いえ、こちらこそ。たったいま笠原君が
私の所へ参りまして、事情を伺ったところです。それで優希さんは? まだです
か………」
警察のこと、学校関係者への連絡は男性教師に任せていいだろう。ここにただ
立っていても、何も起こりはしない。健司は門の前に停めた自転車へ戻る。
「お母さん、ちょっと待って下さい。おい、笠原、待て! 時間も遅い。車で送
るぞ」
男性教師の声が掛けられた時にはもう、自転車は走り出していた。
「大丈夫です」
答えた声が、果たして相手の耳に届いたのか、確認は出来ない。
時間は分からない。しかし家を出て学校を回り、男性教師の自宅へとで、だい
ぶ遅くなったものと思われる。
その間、優希の母親が彼女の立ち寄りそうな友人宅には、連絡を入れているだ
ろう。それでも万一ということもある。
男性教師から警察という単語を聞かされ、健司は少し焦っていた。
頭の中で優希と親しかった友人を懸命に思い出そうとするのだが、焦れば焦る
ほど何も浮かばない。
元々が明るく快活な優希には、性別・年齢に関係なく多くの友人がいた。健司
にしても友人はそれなりにいるが、優希に比べればその数は及ばない。まして学
年が違えばその関係は先輩後輩となりそれ以上のものではなった。つまり一学年
下の優希の友人関係には、健司と共通する部分が少ないのだ。
それでも何人か頭の中に浮かぶ人物はあった。しかし顔だけで名前の分からな
い者。逆に名前だけで顔の分からない者。あるいはどちらも分かるが、住所は知
らないといったものばかりであった。
そんな中でようやく一人だけ、顔と名前、おおよその住いに見当のつく女子生
徒が思い浮かぶ。
室田梨緒。
優希とはあまり釣り合わない、派手な印象の子だったので記憶に残っている。
確か、学校の西側を流れる川の近くに住んでいると、聞いた覚えがあった。そう
だ健司の同級生が、彼女とは家が近いと言っていたはずだ。少々漠然とした記憶
だが、その周辺をしらみ潰しに探して行けば見つかるであろう。
健司は川沿いへと自転車を向けた。
中学時代の同級生の家は分かっている。その近くということで、範囲はかなり
限定出来た。ただ、田舎町で言う「近く」の範囲は都会のそれよりも広い。「室
田」の表札を見つけるまで十分ほどを要した。
おそらく時間は午後十一時を過ぎているだろう。未成年である女子生徒の家を、
仮にも男である健司が訪ねるには非常識な時間だ。しかし事情が事情だけに、躊
躇はしていられない。
家には明かりがあった。幸いまだ就寝はしていないようだ。健司は玄関横のチ
ャイムを押す。インターフォンは付いていない。
「はい、どちらさまですか?」
中から聞こえて来た声は、母親のものだろうか。
健司は名乗り、自分が梨緒の中学校の卒業生であることを告げる。
「実は梨緒さんの友だちの、田嶋優希さんのことで………」
「あっ、アンタ、ケンちゃんでしょ」
妙に明るい声がしたかと思うと、玄関の引き戸が勢いよく開いた。
袖が蛍光色のピンクに染められ、前側には何やら派手なロゴマークの印刷され
たトレーナー。白いパンツスタイルの若い女性。風呂上りなのだろうか。セミロ
ングの少し赤み掛かった髪はしっとりと濡れて見えた。高校生、あるいは大学生
くらいかも知れない。
「あの、梨緒さんは?」
「ヤダ、アタシが梨緒だよ、忘れたのケンちゃん。何度も学校で会ってるじゃな
い」
「ああ、そうか、君が………」
梨緒とは同じ中学校に通っていたというだけで、直接的な繋がりはない。派手
な印象ばかりが記憶に残り、実のところ顔をはっきりと覚えていなかった。同級
生の女子生徒でさえ、私服を着ていれば気がつかないこともある。学年が違えば、
尚更であった。
それにしても、特に親しいわけでもなく、しかも先輩である健司に対し、「ちゃ
ん」付けで呼ぶ梨緒には多少腹立ちもしたが、いまはそれを言っている場合では
ない。
「さっきも言ったけど、実は優希のことで………」
「うん、さっきおばさんから、電話があったよ。優希、まだ帰らないんだって?」
「ああ、それでもしかしたら、誰か友だちの家で、試験勉強をしているんじゃな
いかと思って」
「それでアタシのところに? あははっ、ナイナイ。アタシ、テスト勉強なんか、
したことないもの」
梨緒は笑いながら、少々大げさな動きで手を振り健司の考えを否定した。
この子は本当に友人なのだろうか。優希の行方が分からず、探している相手の
前で笑うなど、無神経にもほどがある。
「じゃあ、他に心当たりはないかな。ああ、それから君が最後に優希と会ったの
は何時?」
「質問は順番にしてよ。アタシ、いっぺんに答えられるほど、器用じゃないから」
梨緒の物言いには、どうも緊迫感がない。健司が思っていたほど、優希と親し
くはなかったのだろうか。
「優希と最後に会ったのはガッコーに決まってるでしょ。おんなじクラスだもん。
つまり授業が終わって帰るまでってことね。それから、えっと………心当たりね。
分かんない。アタシ、優希以外の勉強出来る子とは、あんまり仲、よくないし。
だいたいさあ、頭のいい子って………」
どうやら無駄足だったようだ。これ以上話をしても、梨緒から得られる情報は
ない。
「そうか、ありがとう。夜遅くに悪かったね」
まだ何か話そうとしていた梨緒の言葉を遮り、健司は退散を決め込む。
「うん、別にアタシはもう少し遅くても平気だけど………じゃあ、バイバイ、ケ
ンちゃん」
背後からの声は、無神経も極みに達するものであった。後に続けられた「優希、
見つかるといいね」の一言は、単に社交辞令にしか聞こえなかった。
健司が帰宅したのは、深夜の零時を大きく回ってのことだった。
帰宅前、明かりがあるのを確認して優希の家に寄ってみた。しかし母親が一人
いるだけで、やはり優希は帰っていない。
知る限り全て、優希の友人に電話を掛けたが、ついに彼女の消息は掴めなかっ
た。優希の父親は、単身赴任のため、いまはこの家に住んでいない。明日の始発
で、こちらに向かうとのことだった。
女親一人で、帰らぬ娘の身を案じながら夜を過ごすのは辛いだろう。今夜は僕
も、泊まりましょう、と申し出た健司だったが、それは断られた。
「私は大丈夫よ。それより、ごめんなさいね、ケンちゃん。こんな遅くまで。お
家に帰って、ゆっくり休んでちょうだい。優希なら、心配ないから。あの子、意
外にしっかりしているんだから。
それにね、前田先生に言われて警察にも電話したから。お巡りさんも来てくれ
るって」
家に戻っても優希の無事が確認されない限り、ゆっくり眠れそうにはない。だ
が警察の人間が来るのであれば、健司がいても却って邪魔になるだけだ。不承不
承ではあったが、優希の母親の言葉に従う。何か分かれば連絡を貰う約束をして、
健司は自宅へ戻った。
約束通りに、優希の母親から連絡があったのは、翌朝午前八時を過ぎた頃であ
った。
今日は高校を休もう、そのための電話連絡をしようと考えていた矢先のことで
ある。
家中に轟き渡るかのように、電話機が鳴り出した。あるいは人には第六感があ
るというのは真実かも知れない。それとも虫の知らせとでもいうのだろうか。
機械的に処理された電話の音に、先方が伝えようとする内容によって、変化な
どあるはずはない。だが、健司は電話の音に何か不吉なものを感じ取った。
自分の勘など、実にいい加減なものである。これまでに予感の当たったことな
ど、どれほどあっただろう。半ば願いを込め、己の勘が外れるのを期待しながら
健司は受話器を取った。
嫌な勘は当たるものである。しかもよりによって、一番当たってはならない勘
が、である。
電話は優希の母親からであった。優希の遺体が、海岸で見つかったという最悪
の知らせが告げられた。
波の音を煩いと感じたのは、生まれて初めてだ。
陽射しは強かったが、雲が多い。眩しいくらいの照り返しを放つ砂浜が、突如
薄暗く変わったかと思えば、また陽射しに包まれる。そんな天候もまた、不愉快
であった。
なぜ自分はこんな場所にいるのだろう。
何か理由があってこの場に来たはずなのに、それが思い出せない。
健司はゆっくりと視線を巡らす。そして知った顔を見つけた。
「おじさん………」
誰にも聞き止められることはないほどの声が漏れる。健司が見つけたのは、優
希の父親であった。
「いつ、帰って来たんだろう」
単身赴任をしている優希の父親は、まとまった休みがなければ帰って来ない。
前回、健司が会ったのは夏休みの時だった。それが平日の午前中、このような場
所にいる理由が分からない。
半年のさらに半分ほど前に会った優希の父親は、もっと活力を感じさせる顔を
していたはずだ。早くに父を亡くした健司がイメージする父親像そのものだった。
それがわずかな期間に、何があったというのだろう。いま、健司の視線が捉えた
顔には、全く覇気のない、まるでセミの抜け殻を連想させる。
優希の父親から、少し視線を下げてみた。今度は女性の後ろ姿が目に入る。
優希の父親に比べ、随分と低い位置に頭があるのは、身長差故ではない。女性
は砂の上に膝を落としていたのだ。
その後ろ姿にもまた、覚えがある。あれは優希の母親だ。
砂浜に腰を下ろしているというより、立てないでいるという方が適切だろうか。
両手を前に突き、身体を支えているように見える。項垂れ、肩が小刻みに震えて
いた。
優希の両親揃って、様子がおかしい。
何か徒ならぬことが起きたのだろうと推測は出来たが、声を掛けて問うのは躊
躇われる。
いや、実のところ健司は全て知っていたのだ。
何故自分がここに来たのか、どうして優希の両親がこの場にいるのか。分かっ
ていながら、忘れていた。思考と五感、記憶と行動のバランスが、健司の中で大
きく崩れてしまったのだ。十六年余の人生で、経験のなかった衝撃が何かを狂わ
せた。受け入れたくない現実に、背を向けさせていた。
しかし現実は動かない。
事実から逃れられはしない。
健司の視線は優希の母親より、更に下へ落とされた。
「ああ………そうだった」
そこに現実はあった。
前日まで健司に小憎らしい言葉を吐き続けていた、唇。いまは固く結ばれ、二
度と囀ることはない。
濡れそぼった長い髪。濡れそぼった中学校の制服。
田嶋優希が横たわっていた。
幾分、風は凪いで来た。だが夜の潮風の冷たさに変わりはない。
砂の上に落とした尻にも、冷たさが滲みて行く。
健司は横に手を伸ばし、凍えた指先で砂を撫でた。あの時、横たわった優希の
顔があった辺りを。
世界の人口は、六十億を超えると聞く。
その中の一人、たった一人の死。
中学三年生の女の子の死など、世に与える影響は微々たるものである。彼女の
死を心より悼む者も、広い世界の中、一握りと呼ぶほどにさえ満たない。
しかしそのわずかな人間に与えた影響は計り知れない。
優希の父親は、勤めていた社内に於いて、大きな期待を掛けられていたらしい。
重大なプロジェクトを任され、その成功まであと一歩と迫っていた。それが娘の
死後、人が変わってしまった。「腑抜け」と陰口を吐かれるまでに気力を失い、
その任を後輩へ譲ることになってしまった。いまではただ机に座り、定年が来る
のを待つだけの存在だと人の噂に聞いた。
優希の母親は明るい人だった。陽気ではあったが、些か粗忽でもあった娘に比
べ、明るさと優しさを兼ね備えた人だった。実の母親よりも顔を会わせる機会の
多かった健司に、母の温もりを感じさせてくれたのも、この人だった。
気丈な人でもあった。周りの人への気遣いもあったのだろう。娘を弔った後、
すぐにまた笑顔を見せるようになった。しかしその笑顔は、以前のものと違った。
陽光のように暖かく優しい笑顔が、月光のようなどこか寂しげなものへと変わっ
ていたのだ。その心を思うと健司の胸も痛む。
そして誰よりも、健司の全てが変わってしまった。
時には疎ましく思うことさえあったお節介も、自分にとって充実した生活の一
部であったのだと初めて知る。
笑い、怒り、泣く。紫陽花の花のように目まぐるしく変わる表情も、思い出の
中に閉ざされる。
あの唇が歌を口ずさむことは、もうない。
日向の香りがする髪が、風に舞うことはない。
不器用な手つきで、雨に濡れた仔犬を抱くことはない。
白く長い脚が、力強く大地を蹴って疾走することはない。
突然、心臓を抉り取られた、こんな感覚なのだろうか。いや、寧ろそうであっ
たとしたなら、どんなに楽であろう。あの時自分も心臓を抉られ、絶命していた
のなら、こんなに苦しい思いはしなかった。
冬の夜の砂に、温もりがあろうはずもない。砂を撫でる指先には、ただ冷たさ
だけが残された。
「優希、もうすぐぼくもそこに行くよ」
見つめた砂へと、笑みを送る。しかし健司は首を振って、自らの言葉を否定す
る。
少女は天に召されたのだ。自分が同じ所へ行ける訳がない。
「ぼくの行き先は、地獄だ」
そろそろ時間も近い。
健司はゆっくりと立ち上がり、尻の砂を払った。
悪寒、目眩、吐き気。
最悪の体調のまま、ただ歩くことさえ儘ならない足を、無理に進めていた。
悪魔、天使、幽霊、そのどれであろうと、既に人としての肉体を持たない存在
には変わりない。それが何故、こんな状態になってしまったのだろう。
重たい足を引き摺りながら、彼女は考えていた。
自分は田嶋優希であった。
それが如何なる死に方をしたためか、心は二つに割れてしまったらしい。たぶ
ん、一つは彼女に付き纏った少女、天使となった。ならば残されたもう一つであ
る彼女は、悪しき者である。
悪しき心で善行など、行えるものか。その心に相応しく、悪魔となる以外進む
道は考えられない。
時に苦しみの中で死んだ者は、魂魄と成り果ててさえ、永遠にもがき続けると
聞く。あるいは彼女も、激しく苦しみながら死んだのかも知れない。そうである
とすれば、この苦しみにも説明がつく。
そうか、人の世を呪うように死んだからこそ悪しき心の方が、善の心に勝った
のだ。
思うようにならない足を、彼女は懸命に急がせていた。青年の成すことを見届
けるために。
緩く弧を描き、登って行く海沿いの道。わずかな傾斜が、いまの彼女には大き
な障害だった。幾らもない距離が、遅々として進まない。
彼女は、ふと思う。自分は本当に悪魔なのであろうかと。
これはまるで地獄の責め苦ではないのか。
田嶋優希という、生前の名前を思い出しはしたものの、それ以外の記憶はない。
あるいは田嶋優希は、罪深い生き方をしていたのかも知れない。だからその魂の
一部である彼女が、こうして責められている。彼女は悪魔ではなく、亡者なのだ。
いや、と彼女は首を振る。
ここは地獄ではなく、現世である。
そして彼女は、地獄の王の命を受け、ここまで来たのだ。
この苦しみは罪として与えられたものではない。もう一人の彼女と接触したた
め、起きたものに違いない。
坂もあと数メートルという所まで至り、彼女の足が止まる。
相変わらず苦痛は続いていたが、それが足を止めた理由ではなかった。
街路灯の黄色い明かり。その向こうには、黒い海。
彼女は足を止め、海を見つめていた。
胸の奥で、何かがざわめく。その海に、彼女は見覚えがあった。
彼女が田嶋優希であるのならば、ここは生まれ育った土地だ。どこに立とうと、
見覚えがあって不思議ではない。しかし、いま彼女の目に映る光景は、単に覚え
があるという範疇に留まらない何かを感じさせるのだ。
連続してストロボを焚くように、断片的な記憶が浮かんで来る。次第にストロ
ボの間隔は短くなり、一枚絵であった記憶が繋がり、一連のフィルムとなる。
「私は、ここで死んだんだ………」
そこは田嶋優希が最期を迎えた場所であった。
終業を告げる鐘と共に、教室は開放感に包まれた。
田嶋優希も、皆に倣い机の中のものを鞄へと移し変えていた。
まだ陽の明るい時間に帰り支度をするのは久しぶりで、何やら妙な気分になる。
中学三年生である優希は、この夏、それまで属していたテニス部を引退した。し
かし引退後も後輩に乞われ、部活動に顔を出すことが多かった。そのため、授業
の終了と同時に帰宅するのは何時以来だったのか思い出せない。
尤もそれは、学期末の試験に向けて全ての部活動が休止されたためである。目
前に迫った試験、更には年が明けての高校入試を思えば、決して楽しい気分には
なれない。
「ねえ、優希」
荷物もまとめ終わり、席を立とうかとしていた優希の元に寄って来たのは、ク
ラスメイトの室田梨緒であった。
「今日さあ、ダメかなあ?」
同性である優希に、甘えたような声を出す。
しかし目は優希を見ていない。視線は指で選り分けた自分の髪に送られていた。
どうやら、枝毛を見つけたらしい。
髪の赤い色と、軽く掛けられたパーマは天然のものとして、学校には届けてあ
るらしい。比較的、規則には緩やかな学校にはそれで通っているが、事実でない
ことはクラス中での周知であった。いつだったか、中学校を卒業したら、金色に
染めようかと話していたのを優希は覚えている。
「やっぱり、そっちの方が、いいのかなあ」
ようやく優希へと視線が向けられたが、主語や目的語を省略した梨緒の言葉は
少々難解であった。さらにこちらを向いた視線も、見ているものは優希の目では
ない。どうやら優希の頭を見ているようだ。
「そっちの方って、髪型のこと?」
優希は「仔馬の尻尾」と称される形に束ねられた髪を、つまんで見せた。
「そうそう、それよそれ」
優希と梨緒の間にはまだ一メートル半ほどの距離が残されていたが、それが一
気に縮まる。跳ねるようにして、梨緒が距離を詰めて来たのだ。
「ロリコンオヤジって多いのよねぇ。優希がその気になったら、十万や二十万、
簡単に稼げるよ」
直接息が掛かる距離で、梨緒が真剣な眼差しを以って言う。親交のある優希に
は、それが梨緒流のコミュニケーションであると承知していた。ただそれが多く
のクラスメイトに対し、梨緒への誤解を生じさせる原因でもある。
「それより、何か私に用事があったんじゃない?」
「あ、ああ、そうだった」
これも梨緒の悪い癖だ。こちらが促してやらなければ、話が本題に戻らない。
「これから街に行かない?」
既に優希の返す答えが、自分の期待に叶うものと確信しているのだろう。嬉し
そうに破顔し、梨緒は言った。
それを媚びた笑顔と呼ぶ、クラスメイトの声は優希の耳にも入っていた。しか
し梨緒と付き合ってみれば分かる。大人ぶった言動の影に隠れている本当の梨緒
は、幼いのだ。小さな子どもが周りの大人誰にでも笑いかけるように、梨緒は笑
顔を見せるのだ。
「えっ、これから?」
「ほら、この前、約束したじゃん」
確かに四、五日ほど前、梨緒にせがまれてそんな約束をした覚えはある。
「だけど、テスト前だよ」
「ああ、アタシなら勉強してもしなくても、同じだもん。優希だって、そうでし
ょう? アタシとは逆の意味でさ」
「うーん」
優希は頬に手を充てて考え込む。
付き合っては遣りたいが、今回の試験で優希は、是が非でも良い成績を残した
かった。優希が進学を希望している公立高校は、県下でもその水準の高さで知ら
れている。学年では常に成績の上位グループに近い位置にいる優希でも、合格の
可能性は五分五分と先日、担任教師より言われたばかりだった。
「ねぇ、お願い。買いたい服があって、今日行かないと、きっと売り切れちゃう
の。でも一人だと、心細いしさあ。それにテストが終わった後だと、優希はまた
部活に顔を出すんでしょ」
また甘えるような声。両手を合わせ、梨緒は優希を拝む。
「やめてよ、私、仏様じゃないんだから」
つい、笑ってしまう。他の誰がどう言おうと、優希は梨緒を可愛いと思う。
試験後は受験勉強に専念するため、さすがに部活動に顔を出すつもりはない。
従って、試験後にも梨緒に付き合う時間は取れるのだが、優希の志望する高校の
水準を考えれば、部活動を長く続けすぎた。遅れを挽回するのは、並大抵ではな
いだろう。
それならば寧ろ、今日の方が多少の余裕はあるかも知れない。今回の試験は範
囲も分かっている。買い物で遅れた勉強は、二、三日睡眠時間を減らせば取り戻
せる。元々今日は駅前に寄る予定もあった。これからのことを思えば、梨緒に付
き合うには今日が最も適した日と言える。
「わかったよ。付き合ってあげる」
「やーん、だから優希って好きよ」
と、突然、梨緒は優希の首に抱きついて来た。思わず上げた優希の小さな悲鳴
に、まだ教室に残っていた生徒たちの注目が集まる。
「もう、よしてよ、梨緒ったら。私は女同士で、そんな趣味はないんだから」
「ふうーん、そ、なんだ」
優希に振り解かれた梨緒が、何やら意味あり気な視線を投げ掛ける。しかしこ
こで視線の意味を問おうとすれば、また梨緒の長い話が始まってしまうだろう。
優希は、何も気がつかなかったことにする。
「じゃあ一度家に帰って着替えてから、そうねぇ………駅前に」
約束の時間を決めようとする優希の腕を、梨緒が強く引く。
「平気よ、このままで」
「えっ、やっ………嫌よ、私。制服のままなんて……」
「だいじょうぶだって、お金なら、貸してあげるし」
優希の抵抗は無意味であった。笑顔の梨緒は、見かけ以上の強い力で、優希を
引いていった。
冒険、と言ったら大げさであろうか。
優希は高鳴る自分の鼓動を聞いていた。
「うん、ばっちり。優希、可愛いよ」
鏡の中で梨緒が満足そうな笑みを見せる。
人の話にこういうことをする女子生徒が居る、と聞いた覚えはある。しかし自
分がその立場になるとは、考えもしなかった。
場所は駅の女子トイレ。
制服のまま、二人は電車に乗り、隣町の駅へと移動していた。梨緒はまるで平
気な様子であったが、優希は強い抵抗を感じていた。高校生にもなれば、電車通
学も当たり前であろう。だが中学生が制服姿で電車に乗るのは、何かとても悪い
ことをしているように思えたのだ。ましてこのまま駅を出て、賑やかな街中を歩
き回るなどとても出来そうにない。
その辺りはさすがに梨緒も優希の性格を熟知していたのだろうか。電車を降り
た後、すぐには改札口へと向かわない。代わりにコインロッカーへ立ち寄ったの
だった。
「アタシのだけど、優希のサイズと、そんなに違わないはずだよ」
そう言って梨緒がロッカーから取り出した紙袋には、二着分の着替えが入って
いた。
「うそ、梨緒ったら、いつの間に」
学校とは訳が違う。有料のロッカーである。一回の料金はわずかであっても、
長い期間に渡って借りていたのなら、相当の金額になるだろう。いや、一回分の
料金でも優希の小遣いからすれば、決して安いものではない。
「ん、日曜のうちに、ね」
梨緒は事もなげに答えた。
すると三日間の料金が掛かっていることになる。
「さ、次はトイレだね」
「えっ」
言われるまま連れて来られたトイレが、更衣室代わりであった。自分を優等生
だとは思っていない優希であったが、学校の規則に背いた経験もない。授業の終
わった後、自宅を経ないで街に出る。一般の学生からみれば、校則違反であると
の意識すら持たない、些細な行為であった。しかし優希にとってその行為はわず
かな後ろめたさを覚えると同時に、心をときめかせるものでもあった。
「アタシも、そんなに用意してないけど、二万円くらいなら貸せるよ」
ブランド物のポーチから財布を出しながら、梨緒が言った。
コインロッカーのこともそうであるが、それほど用意していないと言いながら
二万円もの額が出てくる辺りは、優希と梨緒の金銭感覚のずれが感じられる。
「ん、いい。私も少し、持って来ているんだ」
優希は自分の財布を見せて言った。
「なんだ、ひょっとして優希も、最初からその気だったんじゃない?」
ぽん、と梨緒が優希の肩を軽く叩く。
「そういうわけじゃないけど、ちょっとね」
もちろん梨緒との買い物を見越して、現金を持ち合わせていたのではない。
優希は毎月、あるいは臨時に収入のあった度、貯金をしていたのだ。特に何か
目的を持っての貯金ではなかったが、いつかきっと役立つことがあるだろうと、
小さい頃から続けて来たものである。先日、単身赴任をしている父親から、受験
を控え、何かと要り様もあるだろうと小遣いが送られ、それを学校帰りに、銀行
に預けるつもりだったのだ。
「ま、なんでもいいか。いこいこ」
優希が金を持っていた理由を詮索する気など、毛頭ないらしい。小走りにトイ
レから出てゆく梨緒を、優希も追った。
「あーっ、なんか、すっごく満足した、って感じ」
大きく息を吐きながら、梨緒が言った。
帰りの電車の中、長椅子に深く身体を預けた梨緒は、まさに精根尽きたといっ
た風である。乗客の数は少なかったが、人目を憚ることない梨緒に対し、優希は
気恥ずかしさを感じる。
しかし梨緒が疲れ果てているのも、納得が行く。
梨緒が抱えていた紙袋は全部で四つ。それも最大サイズのものばかりだった。
いざ目的の店に着いた時の梨緒には、鬼気迫るものがあった。平日の午後とし
てはそこそこに人気はあったものの、決して混雑しているという状況ではない。
それにも関わらず梨緒はバーゲン会場の主婦を思わせる迫力を見せた。梨緒なり
に基準を持って判断しているらしいが、優希にはただ目につく物を手当たり次第
掴んでいるとしか思えない。しかもそれらの物はバーゲン品ではない。梨緒はわ
ずか数十分の時間で、十万円に近い金額を使って見せたのだった。
更に付け加えると、買い物を終えた後、駅のトイレで制服姿に戻ると、それま
で着ていた物はコインロッカーに再び入れられた。後日、回収するのだそうだ。
「ごめんねぇ、優希。なんか、本当に付き合わせただけみたいになっちゃったね」
優希の持つ紙袋は一つ。しかも中身には少しばかりの余裕がある。それを見な
がら梨緒が言った。
「えっ、なんで? ああ、そりゃあ梨緒ほど沢山は買わなかったけど、私は充分
満足してるよ」
「そう? それならいいんだけど」
優希が買い求めたのは、冬物のコートだった。それも今冬向けとしての物では
なく、前年以前の売れ残りだったのだろう。五千円を割る値段で、特価品のコー
ナーに並んでいた物であった。
梨緒からしてみれば小さな買い物であろうが、優希には大きな決断である。参
考書以外で、千円を超える買い物など、ここしばらく記憶にない。梨緒が十万円
を使うために掛けた時間で、優希は五千円の買い物の決断をしたのだった。それ
も梨緒の付き合いで来ていたからこそ着いた決断で、もし一人でいたなら諦めて
いただろう。
黒一色の、少し大人びた感じがするコート。自分には似合わないだろうと思い
つつ、人から子どもっぽいと言われるイメージを払拭したくて選んだものだった。
満足しているよ。
梨緒には言ったものの、少し後悔もしていた。童顔の自分に、こんな大人びた
物が似合うはずがない。大きな決断を以って買いはしたが、袖を通すことはない
かも知れない。そんな思いもあった。
「うん、それ、きっと優希に似合うよ」
優希の気持ちを察したのだろうか。呟くように梨緒が言った。