AWC 白き翼を持つ悪魔【08】            悠木 歩


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#279/598 ●長編    *** コメント #278 ***
★タイトル (RAD     )  06/08/25  22:58  (494)
白き翼を持つ悪魔【08】            悠木 歩
★内容                                         06/08/26 21:48 修正 第2版
 予想に反することなく、彼女は寺に到達した。ここはかなりの高台らしく、海
がよく見渡せる。強い潮風が、彼女の髪を踊らせた。
 顔に掛かった己の髪を払おうと、右手を遣った。しかし風の中、払った先から
また髪は顔に掛かる。風が止むまでは無意味と知りつつ、再度髪を払おうとして
手を動かす。だが、風が止まるより先に、手が止まった。
「これは?」
 上げ掛けた手を、彼女はじっと見つめる。その指先は濡れていた。
 指先を濡らした原因を探るべく、反対側の手を顔へと運ぶ。指先は額から眉に
掛けて舐めていく。さらに目から頬へと移動し、そこで止まった。
 頬が濡れていた。
 ややあって、濡れた指を顔から少し離す。目で確認した後、今度は鼻に近づけ
る。潮の香りがした。
「涙、なのか」
 彼女の他、誰もいない中で、問うように呟く。
 天を仰げば、陽の光が眩しい。雨に濡れたのではない。
 強い風に、海水が運ばれて来たのだろうか。もう一度頬に触れさせた指で、そ
の源を辿る。それは確かに彼女の目から、零れたものであった。
 彼女は指を広げて、両の目より溢れる涙を拭う。
 人は感情の昂ぶりによって涙を流す。
 嬉しいとき、悲しいとき、悔しさに打ち震えるとき、怒りに満ちたとき。人で
はない彼女だが、人の姿を借りている以上、感情の動きで涙を流すこともあり得
るだろう。だが彼女には、涙を流すほど感情を動かした覚えなどない。また、目
にゴミが入る、どこかに傷を負う等の外的刺激を受けた記憶もない。もちろん外
的刺激を受けて全く気がつかないでいるほど鈍くもない。
 彼女は周囲を見渡した。
 涙についての詮索はもう忘れていた。自分に思い当たる節がない以上、詮索し
ても答えの出しようもないだろう。
 それよりも少女が自分をここに導いた理由に、彼女の興味は向いていた。
 周囲に人影はない。寺の中に入れば誰かいるのだろうが、まさか住職の説法を
聞かせることが少女の目的ではあるまい。
 寺の周りには墓地が広がっている。これもまた、別段珍しい光景ではないだろ
う。
 特に感じるものも見つけられないまま、彼女は墓地の方へと足を運んだ。


 比べる他の場所を知らなかったが、手入れの行き届いた墓地であった。それが
住職によるものなのか、頻繁に墓参りする者が在るためなのかまでは分からない。
とにかく周りに生えた雑草は少なく、古びた感はするものの汚れた墓石はほとん
どない。花や酒、菓子類と、供物も目立った。どうやら墓参りする者が少なくな
いようである。ただ、彼女の他に人の姿がないのは偶然か。いや、盆暮れならい
ざ知らず墓参者が多いとは言っても賑わう場所ではない。また何時間も長居する
ような場所でもない。こんなものなのであろう。
 目的もなく歩くうち、一際見晴らしのいい場所に出た。墓地の端まで来ていた
のだ。
 先刻、バスを降りた場所での眺めも悪くなかったが、こことでは比較にならな
い。海の広さをまさに体感出来る場所であった。
 ここが高台に位置することに加え、彼女の立つ場所より数歩先が崖になってい
るため、眺望を妨げる物が存在しない。緩やかに弧を描く水平線が、はっきりと
見て取れた。人に教えられずとも、地球は丸いのだと理解される。どこまでも広
い海を見つめていると、風景の全てが自分に覆い被さって来るかのような錯覚に
捕らわれる。
 もしリゾート開発会社の役員がこの風景の前に立たされたとしたなら、墓地を
潰し巨大ホテルの建設を目論むことだろう。
 何事にも心動かすことのない彼女であったが、この風景の前にはしばらく立ち
尽くした。
 ややあって、潮の香りとは別の匂いに促され、彼女は我へ返る。そしてゆっく
りと首を振り、香りの出所を探した。
 香りは彼女から一番近い墓の前から、白い煙と共に発せられていた。墓前に供
えられた線香のものであった。
 何をする、という気持ちも考えもなく、彼女はその墓前へと進む。
 赤く艶やかな苺と小さな和菓子。コミカルなキャラクターが印刷されたパッケ
ージのチョコレート菓子もある。墓の主は子どもだろうか。左右には少々窮屈な
形で束になった花。
 いままさに煙を立ち上らせる線香が一束。もう一束分の灰も、まだ線香の形を
留めているところから、今日のうち二人、あるいは二組の墓参があったのだろう。
 彼女にはそのうち一人について、思い当たる者があった。
 寺に着く直前、出会ったあの中年女性である。
 あの道は寺に続く以外、行き先はなかった。従って女性は寺から出て来たばか
りと考えて間違いない。広い墓地の全てを周った訳ではないため、断定はしかね
るが他に線香の煙は見当たらない。あの女性はこの墓に参った帰りだったのだ。
 もちろん何処か用事を足しに向かう寺の住人、とも考えられる。あるいは彼女
が見ていない、別の墓を参ったのかも知れない。だが彼女は、あの女性がこの墓
を参ったのだと確信した。
 根拠はない。それに女性が何者であり、ここで何をしていたのであっても彼女
には何ら関係ない。
 そう思いつつも、何か身体の奥から沸き起こる興味に押され、彼女は墓石に刻
まれた文字を読んだ。そこには墓の下で眠る者の俗名が記されていた。
「田嶋優希………」
 それは人の姿を借りる彼女が名乗る名前。そして青年の心の中にあった名前だ
った。
「思い出してくれた?」
 背後からの声に、彼女は緩慢な動作で振り返る。
 そこにはあの少女がいた。中学生くらいと思われる姿をしている。
「お前か、お前がここに私を導いたのか」
 彼女の言葉に、少女は答えない。ただ何かを期待する眼差しを、彼女へと向け
る。
 少女が何を期待しているのか。何を目論んでいるのか分からない。何れにして
も悪足掻きに過ぎないだろうが、どんな微々たる結果であろうと少女の期待に沿
うつもりなどない。彼女は少女を睨みつけた。
「私じゃない」
 やがて期待した結果を得られないと悟ったのか、少女は首を横に振りながら呟
くように言った。
「なに?」
 まるで悪戯の現場を見つけられた子どもの言い訳である。少女の言葉に、問い
ただす彼女の語気も荒くなる。
「ここに来たのはあなたの意思よ」
 少女の言い分は間違いではない。確かに少女が彼女へ、着いて来いとは一言も
発していなかった。だがそれは屁理屈でもある。敗者の悪足掻きはもはや、相手
にする価値が皆無となったようだ。
「お前が、田嶋優希なのだな」
 素直に答えが返ると思わなかった。しかし彼女の考えに間違いはないだろう。
 少女は天使などではない。田嶋優希なのだ。
 青年の心に、深く存在を刻んだ少女。青年とは幼馴染であり、既にこの世の者
ではないとまでは分かっていた。如何なる理由で少女が命を落としたのか、そこ
までは閉ざされていた青年の心を読むには至らなかった。しかしその死が青年を
歪ませた。だからこそ、彼女はその名を利用し、行動を躊躇していた青年の背中
を押してやったのだ。
 いや、それは少し違うかも知れない。
 名前は利用した。だがそれには手助けをしてくれた者の存在が大きい。
「これもお前のものだな」
 彼女はコートの内ポケットから取り出したものを、少女に見せた。「田嶋優希」
名義の通帳とカードである。
 少女はこくりと頷く。
「お小遣いや、お年玉を貯めたもの」
 これで少女が田嶋優希であると決まった。
 死した後も何らかの理由で田嶋優希の魂は、この世に留まった。幾度か彼女の
妨害をしたことから推測すれば、青年を守りたかったのだろうか。しかし所詮は
人の魂。俗に幽霊と呼ばれる存在が、魂をも喰らう悪魔に敵うはずはない。少女
が守ろうとした青年は、間もなく鬼畜道へと落ちる。
 ただ少女の正体が分かっても尚、疑問が残った。
 もし少女が青年を守りたいがゆえにこの世に留まっていたとするなら、なぜ彼
女にこの金を託したのだろうか。
 彼女が青年に近づいたのは、「成すべき事を成す」ためである。悪魔の眷属で
ある彼女が成すべき事とは、青年を守ろうとする少女とは当然相反するものだろ
う。だが金を与えたことにより、青年を破滅の道に誘おうとする彼女を、結果的
には手助けしているのだ。
 あるいは、少女もまた彼女側の存在なのだろうか。
 青年を歪ませた少女の死には、何か深い事情があるのだと推測するのに容易い。
それならば命を落とした当人、すなわち少女自身、この世に怨みを残していたの
だとしても不思議はない。少女はその怨みを晴らすため、彼女を利用したのだろ
うか。
「誰も傷つけたくなかったから」
 彼女の思考に呼応するかのようなタイミングで、少女は言った。しかしその言
葉の意味を彼女が理解するのには、幾らかの時間を必要とした。
 二人の男。あまりにもその存在の矮小さゆえ忘れていたが、彼女は金銭を得る
ため彼らの命を奪おうとしていた。少女の妨害によって逃がしていたが、もしも
その後通帳とカードを手にしていなければ、再び彼らか別の者の金と命を奪って
いただろう。
「もう時間がないの」
 その言葉の示すところは、彼女にもすぐ理解出来た。少女は青年が最後の行動
を起こすまでの、残り時間を言っているのだ。しかし敗北の決まった者が時間を
気にしても無意味であろう。もう彼女は何もしなくていい。するつもりもない。
ただその時が来るのを待つだけでいいのだ。
 相手への侮蔑と勝利への確信に満ちた笑みを、彼女は隠そうともしなかった。
そんな彼女に対し、少女は悲しげに目を伏せる。
「まだ思い出せないのね………ここに来れば、全部思い出せると思ったのに」
 また発せられた意味不明の言葉。いや、初めから意味などないのだろう。抗う
術を失った少女の、悪足掻きに過ぎない。さも意味ありげな戯言で彼女を惑わそ
うとでもいうのだろう。その結果は徒労に終わる。
「見苦しいな。これ以上お前に付き合ってはいられない」
 気がつけば太陽は随分と低い位置へ移動していた。潮の香りを伴った風も、こ
こに着いた当初より冷たさを増している。
 彼女は踵を返し、この場から立ち去ろうとした。その途端のことである。
「あっ………うっ」
 突然の不調が彼女の身体を襲う。
 朝からの動悸が激しさを一層増す。偽りであるはずの左胸に痛みが走る。上手
く呼吸が出来ず、喉が奇妙な音を立てた。
 彼女は膝から、地面へと崩れ落ちた。両手を突き、顔面が地に直撃するのを防
ぐ。
 頭が割れるように痛い。頭痛の影響か、視界まで霞んで来た。目に映る地面が
急速に遠のいたり、近づいたりを繰り返す。
 それは彼女が初めて経験する苦痛であった。昨晩、女たちによって受けた暴行
すら比較にはならない。
「お、ま……え、の………」
 お前の仕業なのか。声にならない声で、少女を問いただそうとした。答えが返
るまで待たず、彼女は重たい頭を上げ、霞む視線を少女へ向ける。
 答えが返らないはずである。
 そこに少女の姿はない。しかし今度は消えたわけではなかった。彼女の向けた
視線が、少々高すぎる位置にあったのだ。
 やや視線を落とすと、少女はそこにいた。
 彼女と同様、両膝と両手を地に着けて。
 霞む視界の中、はっきり見て取ることは叶わないが地に向けられた少女の顔か
ら、雫が垂れ落ちる。汗なのか、涙なのか、あるいは涎であるのか。
 突如彼女を襲った苦痛は、同時に少女をも襲ったらしい。
 この苦痛は少女がもたらしたものではないのか。だがこのタイミングで彼女と
少女が同時に、体調や病から苦痛に襲われるという偶然は考えにくい。それ以前
に、悪魔である彼女と、幽霊である少女が身体的な理由から、苦痛を受けるはず
はない。
 あるいは他の第三者の仕業なのか。
 これには思い当たる節が全くなかった。いや、もし彼女が冷静に思考を働かせ
ていたなら、何か原因を特定出来たかも知れない。しかし一秒毎に激しさを増し
ていく苦痛に、思考力は著しく低下していた。
 上半身を支えていた両腕も、もはやその力を失った。そのまま彼女は、顔面か
ら地面へ落ちてしまう。口や鼻に土が入り苦しいとは感じるが、それを認識する
能力も失われていた。
(たすけて………)
 声は出ていない。掠れていく意識がうわ言のように助けを求めていた。その言
葉は、彼女の脳裏に浮かぶ一つの顔に投げられていた。
 地獄の王ではない。
 青年でも少女へでもない。
 彼女が助けを求めた顔は、これまで関わりらしい関わりを持っていない人物の
ものだった。それは先刻、ただすれ違っただけの、中年女性の顔だった。



 ふいに意識が戻る。その視界が最初に捉えたものは、くっきりと木目の浮かん
だ板であった。
「ここはどこだ?」
 うつ伏せに倒れ込んだはずが、いつの間にか仰向けになっていることに気づく。
彼女が見ていたのは天井の板だった。
「てんじょう?」
 墓地に何故天井があるのか、理解出来ない。彼女は自分の置かれた状況を把握
しようと視線を巡らす。
 どうやら彼女はどこかの家に居るらしい。その一室で、布団に寝かされていた
のだ。
「よう、目が覚めたみたいだな」
 頭の方から、男の声がする。
 声の出所を求め、彼女は顔を動かそうとしたが、思うようにならない。身体が
重く、自由が利かない。そんな状態を察したのだろうか、声の主の方から、彼女
の目の前に顔を動かして来た。
「お前は………」
 声の主は笠原健司であった。
 いや、しかし何か違和感がある。
「何だ、どこか痛いのか?」
 違和感の正体を付き止めようとする彼女は、無意識のうち、眉間にしわを寄せ
ていた。相手はそれを苦痛の表情と勘違いしたらしい。覗き込む青年の顔を見つ
め、ようやく彼女は違和感の正体に行き着いた。
 青年、いやいまは寧ろ少年と呼ぶ方が相応しいかも知れない。目の前にある笠
原健司の顔は、彼女の見慣れたものより若い、あるいは幼いのだ。
「お前は笠原健司なのか?」
 少し声を高めたつもりだったが、掠れてしまい大きくはならない。
「バカなこと言ってないで、ちゃんとケンちゃんにお礼、いいなさい」
 彼女に答えたのは青年ではない。別の、女性の声だった。彼女は声の主を求め
る。今度はそれほどの労力も必要なかった。首をわずかに右へ向けるだけで済む。
 そこには清潔感のある白いエプロンをした女性が立っていた。女性の手には丸
い盆があり、飾り気のないグラスと黄色い小さな箱が載せられている。
 その女性にも見覚えがあった。墓地の近くですれ違った、あの中年女性だ。こ
ちらも青年同様、先刻会ったときよりも若く見える。
「あなたは誰?」
 自分の置かれた状況が、全く理解出来ない。彼女にしてみれば、これまでに使
った覚えのない丁寧な口調で女性へと尋ねる。
「あら、この子ったら寝ぼけているの? 自分の母親に向かって」
 女性は彼女の横で腰を下ろし、正座した。それから盆を脇に置くと、左手を彼
女の額に、右手を自分の額へと宛がった。
「うーん、まだ熱っぽいわね。身体、起こせるかしら?」
 女性に逆らうつもりはない。気力もない。彼女は小さく頷くと、言われるまま
に上半身を起こそうとした。そんな彼女を助けるため、背中に女性の手が回され
た。しかし上体を起こそうとする彼女の行動は、自らの意思で中座させられる。
「あっ………」
 ふいに湧き上がった感情。彼女は一瞬、健司の方に目を遣り、すぐに女性へと
顔を向け直す。
 女性は彼女の感情をすぐに察したようだ。口元をわずかに綻ばせると、健司へ
言葉を掛ける。
「ごめんなさい、ケンちゃん。ちょっと外してくれるかしら」
「えっ、あ、ああ。分かりました」
 女性に促され、健司は立ち上がった。

 彼女は恥ずかしかったのだ。
 異性に寝姿を見られていたのだと思うと、顔から火が出るほどに恥ずかしい。
さらに上体を起こせばパジャマ姿を曝すことになる。親しい間柄であっても、そ
れには強い抵抗感があった。
(親しい?)
 彼女は自らの思考に疑問を持つ。
 確かに地獄からこの世へやって来て、最も深く関わりを持った人間は笠原健司
であった。しかしそれは彼女の目的を果たすためであり、見せ掛け上はともかく、
健司に親しさを感じたことなど一瞬たりともない。それなのにいま、健司を親し
いと感じることに何ら抵抗はなかった。
 健司が部屋を出るのを待って、女性は彼女が起き上がるのを手伝ってくれた。
そして傍らに置いた盆上の箱を取る。市販の薬であった。中からカプセル薬を出
すと、彼女へ飲むようにと促す。彼女は素直に従い、カプセルを口に含むと続い
て手渡されたグラスの水で喉に流し込んだ。
 どれだけ効果の高い薬であったとしても、この短時間で効くはずなどない。だ
が再び布団へと横にさせられた彼女は、身体が随分楽になったような気がする。
「少し汗をかいたみたいね、食事の後で着替えましょう。いまお粥を作っている
から、ね。食べられるわね?」
 優しく幼子に語り掛けるような女性の声は、彼女の心を落ち着かせる。彼女は
ただ、うん、と短く答え頷いた。
「おばさん、優希も気がついたし、ぼく、もう帰ります」
 奥から健司の声がした。あるいは彼女を気遣っているのか、少し距離があるの
にも関わらず、大きさを控えた声である。
「あっ、待ってケンちゃん。夕ご飯、食べて行ってちょうだい」
「いえ、今日は母さん、早く帰って来るんで」
 とんとんと、何かを叩く音。たぶん、玄関で足を靴に押し込む音だろう。続け
ざまにドアを開ける音、閉める音。まだ何か言おうとしていた女性の言葉を待た
ず、健司は帰ってしまった。
「気を使ってくれたみたいね」
 と、ため息にも似た女性の微笑み。それから彼女を見つめて言った。
「あなたケンちゃんにまだ、お礼言ってないでしょ? あとで、ちゃんと言わな
くっちゃね」
「私………どうしたの?」
 墓地で倒れているところを運ばれた、というのではないだろう。状況を知るた
めに彼女は尋ねた。
「あら、本当に覚えてないの。あなた、学校で倒れたのよ。風邪で熱を出したみ
たい。勉強もいいけれど、夜更かしのし過ぎよ。それでね、ケンちゃんが負ぶっ
て、家まで運んでくれたの。寒いのに、自分はシャツ一枚になって、学生服とコ
ートをあなたに被せて。ん、そろそろいい頃ね」
 話の途中で女性は立ち上がった。どこからか、いい匂いがして来る。粥の煮え
る香りだ。耳を澄ますと、ことことと鍋の音も聞こえる。
「玉子、入れるわよね?」
「うん、入れて」
 台所へと向かう女性の背中を見送りながら、彼女は頭の中で状況を整理する。
 いまの自分は田嶋優希なのだ。それは勿論、成り行き上名乗った名前ではなく、
本物の田嶋優希なのだ。それも過去の、何年前が定かではないが、中学生くらい
の田嶋優希であるらしい。
 そしてあの女性はその母親なのだ。
 なぜ時間を遡り、彼女が田嶋優希となったのか。考えても分からない。悪魔の
眷属である彼女にも、試したこともないがそんな力はない。ましてや、たかが幽
霊でしかないあの少女―――田嶋優希自身に成せる業ではないだろう。
 しかし、そんなことはもうどうでも良くなっていた。
 成すべき事を成す。これまで行動の全てを司って来た目的も、いまは彼女を駆
り立てようとしない。このまま田嶋優希として、この時間を生きるのも悪くない。
台所で仕事をする女性の背中を見ながら、彼女は経験したことのない、穏やかな
気持ちになっていた。
 部屋の隅で、ストーブの上のヤカンがしゅうしゅうと鳴っている。
 やがて玉子粥の香りが漂って来た。
 彼女は軽い空腹感を覚えた。



 夢の終わりとは、唐突なものである。
 待ちかねた玉子粥を彼女が口にすることはなかった。当然であろう。一体どこ
の誰が、墓地まで玉子粥を運んで来ると言うのだろう。
 彼女が横になっていたのは、暖かい布団ではなく、冷たい土の上であった。
 ゆっくりと彼女は立ち上がる。それから、口の中の土を、唾と一緒に吐き出し
た。辺りの風景に変化はない。唯一あるとしたなら、空の色が夕刻のそれに変わ
っていたことくらいである。
「当たり前だな」
 彼女は自嘲の笑みを浮かべた。
 何者であろうと、時を戻すことなど出来るはずはない。まして遡った時間の中
で別の人間に生まれ変わるなどとは論外だ。それが悪魔だろうと、天使だろうと
である。
 有り得ない時間の中で、愚かな考えを持った自分が滑稽で仕方ない。
「いまのは、お前が見せたのではないのか?」
 見れば彼女同様に倒れていた少女も、いま起き上がるところであった。
「いいえ」
 身体に付いた土を払いながら、少女は否定する。
 幽霊であっても汚れるものなのかと、彼女は不思議に思った。
 少女は否定したものの、同時にあることを彼女に伝えていた。彼女の見た夢を、
少女も知っているのである。
「あれはあなた自身の記憶」
 全く予想もしていなかった答え、ではなかった。あるいは、と思ってはいたも
ののあまりにも馬鹿げたことを平然と言ってのける少女に、彼女の顔から笑みが
消える。
「私の記憶だと? 私が本物の田嶋優希だと言うのか。はん、それではお前は何
者だ」
「私は、あなた」

 答えに窮したり、言い澱んだりはない。どこかでシミュレーションを重ねて来
たのではないだろうかと想像されるほど、少女の言葉はスムーズであった。
「なるほど、私もお前も田嶋優希と言うわけか」
 彼女は首を横に振る。
 気になることは多いが、少女と話を続けていても満足の行く答えは得られそう
にない。時間はもう、それほど残されてはいない。今度こそ、彼女はこの場を立
ち去ろうとした。
「あなたは、はんぶんの私」
 背中から聞こえる声に、彼女は無視を決め込む。
 だが少女はそれを許す気がないようだ。

「私は、はんぶんのあなた」
 続く声は前方からであった。相手が幽霊であるならば、不思議はない。少女は
瞬間的に、彼女の前に移動したのだった。
「思い出して! いいえ、もうあなたは分かっているはず。さっき、倒れる前に、
あなたはお母さんの顔を思い浮かべたでしょう」
「黙れ」
 すがるような少女の目は、彼女を苛立たせる。
「もう時間がないの、ケンちゃんを止めて!」
「止めたければ、自分で止めるがいい。もっとも私がそれを許しはしないがな」
「止められるのはあなただけなの」
「黙れ、退け! これ以上邪魔をするな」

「あなたは、はんぶんの………」
 もはや彼女の怒りは、頂点へと達していた。少女が言い終えるのを待たず、そ
の口を塞ぐための行動に出ていた。
 巨大な朱色の鎌を振るっていた。
 己の武器が、幽霊に通じると予測した上の行動ではない。だが少女の身体は頭
の中心から股間へと一直線に裂ける。あるいは先刻土の汚れを払っていたところ
を見れば、幽霊とは言っても少女は何らかの実体を持った存在なのだろう。
 二つに裂かれた少女の半身は、光の粒と変わり、夕暮れの中に消えて行く。そ
の様子はまるで季節外れの蛍のようであった。
 しかし半身は残される。
 身体の中央から左半分だけの姿となって、その場に立っていた。
「私は、半分のあなた」
 左半身のみの異様な姿となっても、少女はそれ以前と変わらない調子で言葉を
綴る。そこには半身を斬り捨てた彼女への怨み、憎しみが込められた様子もない。
 寧ろ少女を半分に斬り捨てた彼女のほうに、動揺があった。
「左、半分だと」
 目の前に立つ少女の姿に、覚えがある。それは他ならぬ、彼女自身の姿であっ
た。
 頭の中で何かが割れる音が、聞こえたような気がした。次の瞬間。
 少女の半身が四散したように、彼女の半身も風に融けて行く。そして右半分だ
けが残された。
「まやかしか」
 叫びに近い声を上げ、彼女は再度鎌を振る。真横に少女を斬り裂こうとして。
しかし鎌は空を斬るだけであった。一度は斬れた少女が、二度目は斬れない。彼
女は三度、次は斜めに鎌を振るったが、やはり少女の身体を素通りするだけであ
った。
「もうあなたも分かっているはずよ。私も、あなたも、田嶋優希。あの時、一人
の心が二つに分かれてしまった」
 少女はゆっくりと歩み寄る。左半分だけの身体には、当然左足しかない。それ
でも跳ねたり飛んだりするのではなく、まるで両足で歩くのと変わらない動きで
彼女へと近づいて来る。
「ああ」
 これ以上は無駄と知ると、彼女は鎌を手放した。手から離れた途端、鎌は形を
崩し彼女の身体へと吸い込まれるように消えた。
「あの時とは、何のことだか分からないが、確かに私も田嶋優希らしい」
 彼女の言葉は、少女の顔に笑みをもたらした。安堵の表情を浮かべた少女は、
彼女へと手を差し出す。
 だがすぐに少女の顔から笑みは消え、その表情は曇る。差し出された手を、彼
女が振り払ったのだ。
「つまりは善と悪の心に別れた、と言うことだろう。悪の心は地獄に堕ち、悪魔
となった。それが私だ」
「違うの! そうじゃ………」
 少女の言葉は待たない。
 彼女は力を放った。いや、正しくは心を放ったとでも言おうか。
 少女を「拒否する」と言う感情を放ったのだった。
 感情は激しい風となる。しかし物理的な力は持たない風である。
 草木は揺らさない。
 土埃は舞わない。
 だが少女は押し戻す。
「だめ、このままじゃ、ケンちゃんが………」
 髪も服も、激しく後方へ流れる中、少女は懸命にその場に留まろうとしている。
彼女は放つ力を更に強めた。
「私の目的は、その笠原健司を滅ぼすことだ」
「どうして」
 少女は泣いているようにも見えた。しかし何一つそよがすことない風だが、彼
女が拒む少女の涙は吹き飛ばされ、姿は見止められない。
「元が何であれ、私は悪魔だ。今更、田嶋優希に戻れるものか。私は私の『成す
べき事』を成すのみ」
 咆哮にも似た彼女の言葉が、少女の耳へと届いたのかは分からない。全てを言
い終えるより先に、力尽き、少女は何処かへと飛ばされて行ったのだ。
 そこは薄暗い墓地。

 少女が消え、彼女の他人影はない。
 時計を持たない彼女に正確な時間は分からなかったが、目的が達せられるまで
はあとわずかであろう。そろそろ、その場へと向かおうと考えた。
 気がつけば彼女の左半身も、元に戻っていた。
「私は悪魔だ」
 呟く彼女の目には、涙が溢れていた。


 夜もだいぶ更けてきた。
 目的の時刻が迫る中で、健司は最後の寄り道をしていた。
 この町ではどこに居ても、そこは思い出の場所であった。
 降り立った駅、バス停、家も寺も、田も畑も、道端にすら優希と共有していた
時間の思い出がある。
 その思い出の途切れた場所に、健司は来ていた。
 月が綺麗だ。今宵は十五夜だったか、十六夜だったか。別段、花鳥風月に親し
む習慣のない健司だったが、どこか風流な気分になってしまう。
 海に朝陽夕陽の絵はよく目にするが、月も悪くない。笠原健司は海岸に来てい
た。
 さくさくと音を立てながら砂浜を歩く。月の明かり以外、何もない中でも砂の
白さは、はっきり見て取れた。
 町とは名ばかりで、何もない田舎である。
 近代的な高層建築は当然、名所旧跡といった観光の対象になるものもない。た
だ唯一、健司が誰かに故郷自慢をするならば、この海岸の話をするだろう。
 岩場と岩場の間に挟まれ、それほどの広さはない。しかしゴミ一つない白い砂
浜の美しさは、有名な観光地にも劣らない。
 ただ数年前、この砂浜に一つの漂着物があった。
 それが笠原健司の幼馴染みである、田嶋優希の亡き骸であった。
 砂浜の半ば、波打ち際近くで健司は足を止める。ちょうどこの辺りに、優希の
冷たくなった身体が横たわっていたのだ。
 屈み込み一握の砂を手にする。すぐに立ち上がり、真っ直ぐに伸ばした拳をゆ
っくりと開く。
 手から零れた砂が、潮風に流され、落ちていく。
 あの日のことは、忘れたことがない。いまでも昨日のことのように覚えている。

 優希が無断外泊をするなどとは考えられない。幼馴染みの健司と優希である。
互いの家で寝泊りすることは何度かあったが、当然それは親も承知の上であった。
大きくなったとはいえ、まだ中学三年生、まして母親思いの優希が連絡の一つも
なく遅くまで家に帰って来ないのだ。何か尋常でないことが起きたと思うのは当
たり前だろう。
 健司が優希の母親から電話を受けたのが、夜の八時を少し回ったくらいの頃だ
った。
 その時はまだ、健司も切迫したものを感じはしなかった。テニス部に所属して
いた優希の帰りがその位の時間になるのは、珍しくなかったのである。高校受験
を控え、既に引退していたものの、面倒見のいい優希は度々部に顔を出しては後
輩を指導していた。
 今日も多分、そんな理由なのだろうと健司は考えた。それは優希の母親も同様
であったろう。だがその判断は間違いであったと、後になって分かる。
 次に電話があったのは、九時半だった。
 優希はまだ帰らず、連絡もない。念のため、学校に電話してみたが誰も出ない
とのことだった。
 そこで健司も不安を覚えた。
 一応、ぼくが学校を見てきます。おばさんは心当たりに電話してみて下さい。
優希の母親にそう告げて、健司は受話器を置いた。
 そのまま玄関に向かう健司に、隣の部屋で会話を聞いていたのだろう。母親が
コートを手渡してくれた。
 健司の母校であり、優希の通う中学校までは、自転車で十五分ほど掛かる。夜
間は車の通りもほとんどなく、注意しつつも目一杯速度を上げた自転車は、十分
を大幅に切る時間で中学校に到着する。
 しかしそこで優希の姿を見つけることは出来なかった。校庭側から見る校舎に
明かりはない。その夜は空に月も星もなく、闇に聳える築後五年、三階建ての校
舎は不気味な佇まいを見せるだけであった。
 まさかとは思いながらも、健司は校舎の裏手へと回る。通用門の前に立つと、
備え付けのインターフォンを押してみた。しばらく待つが応答はない。もう一度
押してみるが、やはり誰も出ない。もともとこの中学校では宿直を置いていない。
諦めてその場を離れようとした健司だが、振り返り無人の校舎に目を凝らして見
た。微かに赤い光が見止められたが、あれは非常灯のものだ。
 自転車に跨った健司は、この後の行動について思案する。とりあえず学校には
居なかったと優希の母親に連絡するべきなのだが、生憎携帯電話は持っていない。
近くに公衆電話もない。そうだ、テニス部の顧問でもある教師の自宅が、学校か
ら近い。まさかこの時刻に、優希がそこにいるとは思えないが、何か分かるかも
知れない。
 健司は、自転車のペダルを強く漕ぎ出した。




元文書 #278 白き翼を持つ悪魔【07】            悠木 歩
 続き #280 白き翼を持つ悪魔【09】            悠木 歩
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