#278/598 ●長編 *** コメント #277 ***
★タイトル (RAD ) 06/08/25 22:56 (479)
白き翼を持つ悪魔【07】 悠木 歩
★内容 06/08/26 21:45 修正 第2版
田舎、と一言で片づけてしまってもいいだろう。駅前の風景はこの数日間、彼
女が過ごして来た街とはあまりにも異なっていた。
改札口の前は心ばかりのロータリーになっていたが、車の通りは殆どない。今
しがた軽自動車が一台、通ったきりだ。へこみ、折れ曲がり、すっかり錆びだら
けとなった看板に、辛うじて「タクシー乗り場」の文字が読み取れたが、果たし
て本当にタクシーが来るのか怪しいものである。
駅周辺には高い建物が見当たらない。何の商売をしているのか不明だか、三階
建ての店舗を兼ねた建物が一件あるだけだ。しかし店の方は看板もなければ、入
り口はガラス戸で閉ざされており、商売をしている気配も感じられない。さらに
隣にも平屋の建物がある。こちらはどうやら、銀行のATM機のみが設置されて
いるようだ。
当然人の姿も見られない。もっとも高層ビルはなくとも、見渡す限りの野原と
いう訳でもない。朝夕に賑わうのかどうかは別としても、ゴーストタウンではな
いだろう。
吹く風が潮の香りを運んで来た。
車窓からも見えたが、海が近い証拠である。潮の香りに微かではあるが生臭い
匂いも混じっていた。どこかに漁港があるのだろうか。
真の目的地までは、駅からまだ距離がある。確か少し先にバス停があったはず。
記憶が導く方へと数歩進めた足を、ふと止めた。
半身のみの身体を偽り、人の社会に降り立ち、わずかに数日。人の世での経験
ということにおいて彼女は、よちよち歩きの赤子にも劣る。それが初めての場所、
初めての街でも迷うことなく行動が執れるのは課せられた使命と、まるで野性動
物の本能の如く彼女に備えられている記憶によってであった。
彼女はそれを悪魔に与えられたものと考えていた。しかしいま、彼女の足をバ
ス停へと向かわせた記憶は、どこかそれとは異なる。
具体的に何が、と問われても彼女自身、明確に答えられる訳ではない。それで
も無理に説明をするのであれば、前者はコンピュータのディスクに刻まれた記録
と似ている。誰かが作ったデータを、コンピュータである彼女はただ読み取るだ
けに過ぎない。一方後者は、人が経験によって得る記憶であった。つまり彼女の
足を動かしたのは、その方向にバス停があるのだという情報ではなく、バス停が
あったはずという経験による記憶。
既視感、俗にデジャヴーと呼ばれる現象に近い。所謂前世の記憶というものだ。
だが多くの場合、かつて見た写真や映像と風景が一致した時、思い込みによって
起きる現象だとも言われる。もし人が一生を終え、再び生まれ変わることがある
のだとしてもその間に街並みは大きく変化しているだろう。たとえば明治時代を
生きた者が、平成の世に生まれ変わってもその目が見る街並みが一致するはずは
ない。
もっとも彼女の場合、まだ人の世で過ごした時間は短い。たとえば血の海の中
で目覚める以前、人としてこの場所に来ていたとしたならば、そんな考えが浮か
ぶ。
半身だけであったが、彼女は獣ではなく、まして古い絵に描かれているような
悪魔の姿でもなく、人の姿をしていた。これは彼女がそれ以前、人間であった証
ではないのだろうか。そうであるのならば、彼女が名乗ることになった田嶋優希
の名も偶然ではないかも知れない。
「馬鹿な………」
彼女は首を横に振る。
こんなことを考えてしまうのは、あいつのせいだ。
今朝方の夢に振り回されているのだ。
一度は無力と判断したが、案外これが天使なる者の力なのだろうか。物理的な
影響力こそ持たないが、こうやってこちらの精神を蝕むことこそが狙いなのかも
知れない。ならば、悪魔である彼女より質の悪い存在だ。
遠くから聞こえて来たバスの音に、彼女の思考は中断させられる。他に走る車
のない道だ。特別な力を使うまでもなく、少しばかり距離があっても接近してく
るバスの音は充分聞き取れたのだ。
このバスを逃せば、次までは一時間近く待つことになってしまう。彼女はバス
停へと急いだ。
駅から二十分ほど走った所で、彼女はバスを降りた。ここも駅同様、いやそれ
以上に何もない場所であった。走り去ったバスの進行方向右手、ガードレールの
先に海が見渡せた。海の右側から細長い陸地が突き出ていたが、それが島なのか
どうか定かではない。ガードレールの向こう、海の手前が崖となっており、そこ
に生えた松により陸地の更に右側が視認出来ない。しかし眼下の海には早い流れ
があるようだ。陸地に囲まれた湾、ではないと想像出来る。
もっとも彼女にはそれを確認しようとする意思はなかった。確認したところで、
それが目的のため役に立つはずもない。それにまだ目的の場所に到達してはいな
い。ここで足を止めている理由はなかった。
しかし急ぐ理由もなかった。
青年が彼女の求める動きを起こすまでには、まだ時間がある。彼女の目で直に
確認したいのであっても、急ぐ必要はなかったのだ。
それが接近して来るバスの音につられ、いやそれ以前に明け方の夢に急き立て
られ、ここまで来てしまった。どこかで時間を潰さなければならない。
とは言っても、田舎町のことである。デパートや喫茶店といった類のものがあ
るとも思えない。少なくとも停留所周辺からは、民家すら見当たらない。他に興
味を惹くものもなく、彼女は海を見続けた。
思えば開けた風景を目にするのは、彼女にとって初めての経験だった。青年と
出会った街は大小の建物がひしめき合い、空間というものを感じさせない。彼女
の中で最も古い記憶である血の海は、確かに開けた空間だったかも知れない。し
かし、血の赤と、闇とが充満した世界には深さを感じさせることはあっても、広
さを感じさせることはなかった。
この地に着いて以来、いや電車がこの地に近づいたときから彼女の鼻腔に届い
ていた潮の香りも、決して不快ではない。むしろどこか鉄錆臭い朱色の海より、
よほど心地よい。
そうか、人の世界の海は青い色をしているのだな。
興味がなかったはずの眺めに、彼女は感想を零していた。
緩やかな弧を描く海の果て。いや、あれは果てなのではない。あの先も更に海
は続く。そしてその更に向こうには自分の知らない土地がある。いつかきっと、
この海を越えて行ってみよう。それが幼い日からの夢だった。
「なに?」
いつの間にか、風景に惹き込まれていた彼女が我に返る。
彼女にとって覚えのない記憶と思考。しかしそれは確かにいま、彼女の中にあ
った記憶と思考だった。
「お前は………」
彼女の横に一人の少女がいた。彼女と同じように海を見つめていた。
いくら風景に見入っていたとしても、他者の接近に気づかない彼女ではない。
しかしいまこの瞬間まで、彼女は少女の存在を感じていなかった。だがそれより
彼女を驚かせたのは、その少女に見覚えがあることだった。
「お前は、私と同類なのか? それとも対峙する存在なのか」
小学校の二、三年生くらいであろうか。外見上は明らかに年下の少女に対し、
彼女は対等の物腰で問い掛けた。
答えは返らない。あるいは彼女の声が耳に届いていないのかも知れない。どこ
か物憂げな表情で海を見つめていた。
海からの潮風に少女の髪が舞う。
幼子の細い髪は、陽の光を受けて透明に輝く。
それは幻想的な眺めであった。幼さに似合わぬ真剣な眼差しと合わせ、少女を
非現実的な存在とさせていた。
「やはりお前は、現実の者ではないのだな」
彼女は得心する。あの時もいまも、少女はその場に存在していなかったのだ。
以前、街の駅近くで見かけた少女。あの時は少年と二人、彼女の前に現れた少
女が、いまは一人で現れた。
夢、幻、あるいは幽霊。この世に留まった、死者の想いというものなのか。い
ずれにせよ、実体のないただ影だけのようなものなのだ。
朧気ではあったが、彼女は全てが見えてきたように思えた。
今朝方の夢に現れたのも、この少女だ。そればかりではない。これまで幾度か
天使として、彼女の行動を妨げて来た存在はこの少女だったのだ。
少女もまた、彼女と同じなのだろう。
何かしらの使命を帯びて人の世にやって来た。おそらくその使命は、彼女とは
相反するものなのであろう。そして少女は少女なりに、「成すべき事を成す」た
め努めて来た。そしてその成果を確かめるべく、ここに居るのだろう。
「もうすぐ決着だ」
彼女も海を見つめる。
波打つ海面がきらきらと輝く。どこかで見た光景だ。
彼女は思う。
ああ、そうだ。ここに来る途中、電車の中で見た夢だ。
いや、違うな。
あの夢では、彼女は海の中にいた。いまは高い場所から海を見ているのだ。
それではいつ見たのだろう。
まあ、いい。古い記憶を探ってみても詮ないことだ。それよりいまは自分の計
画が無事完遂されるか、あるいは少女に敗れるか、そちらの方が肝心だ。
半ば幻に近い形ではあったが、少女が具体的に彼女と対峙するのは初めてのこ
とである。しかし彼女は、ここで直接少女と決着をつけるつもりはなかった。
もちろん少女がこれから更に動きを見せるのであれば話は別だが、互いにやる
べきことは既に終えている。勝者がどちらであるかは、あと少しの時間を待てば
結論が出るのだ。
もっとも彼女は自分の勝利を確信していた。確かに不安があったからこそ、こ
の地まで来た。だが、ここで少女と会ってその不安は払拭された。
もともと人の感情は正の方向より、負へと向く時、強く働く。一度動き始めた
感情は、たとえ何者であっても容易に止められるものではない。決壊したダムか
ら溢れる激流を、人の手で止められはしないだろう。それと同様だ。
何よりこれまで姑息な手段を用い、彼女を邪魔立てして来た天使がこうやって
姿を見せた。覇気ない表情でただ海を眺めているのは、自らの敗北を悟ったから
こそであろう。
彼女は横に並ぶ敗北者の顔を、もう一度見ようとした。
しかしそこに彼女の期待したものはない。
現れた時と同じように、突然姿を消していた。
先の見えた勝負に、立ち会う気力も失せたのだろう。彼女は唇に微かな笑みを
浮かべ、海へと視線を戻そうとした。だが視界の端に何かを捉え、その正体を確
認すべく海とは反対側を見遣った。
少女はそこにいた。
相手に気配を感じさせない。この一点についてだけは、彼女も敗北を認めざる
を得ない。彼女に気取られることなく、いつの間に道路の向こうに移動していた
らしい。もっとも少女が彼女と同じように、仮初めであっても身体を持っていた
なら、決して後れを取りはしない。
「何の真似だ」
心に余裕を感じつつあった彼女の眉が、歪む。
移動した少女の姿に、不可解な変化があったのだ。
彼女の横で海を見ていた少女は、小学校の二・三年生くらい。ところが、道路
の反対側に立ち、こちらに寂しげな視線を送る少女の姿はそれより若干、成長し
ていた。
小学校の五・六年生といったところか。頭一つ分以上は、背丈も伸びている。
どこか憂いを秘めた表情に、大人びた気配が感じられた。
幻だからこそ出来る芸当であろう。命ある肉体を持つ者であれば、ほんの一つ
二つ瞬きをするほどの時間で目に見えた成長を遂げるはずもない。
ただその意味が不明である。
あるいは普通の人間相手であるなら、こけ脅し程度にはなるだろう。しかし血
の海に生まれ、巨大な蛆虫や蝿を相手にしてきた彼女には、大道芸ほどにも驚き
を与えない。そのくらいのことは、少女とて理解しているはずだ。
彼女に向けられていた視線が外された。そして少女は歩き出す。
少女のいる方、つまり、道路を挟んだ彼女の反対側は山の登り斜面になってい
た。落石、あるいは崩落を防ぐためのブロックが貼られていたが、そこに階段が
設けられている。少女はその階段をゆっくりと登り始めた。
階段を上がって行く少女を目で追いながら、彼女は苛立ちを覚えていた。
ただ彼女の前から立ち去ろうというのであれば、文字通り消えてしまえばいい。
それをわざわざ、ゆっくりとした動作でこれ見よがしに移動して行く姿には、意
図的なものが感じられる。
少女は彼女を誘っているのだ。
「口が利けない訳ではないだろうが」
相手の思惑に乗るのは面白くない。何かまた、姑息な罠を用意していないとも
限らない。もっともお互いに生者ではない身だ。彼女に恐れる死はない。それに
いまさら相手がどのような手段を講じようとも、彼女の勝利は揺るがない。なら
ば相手が最後にどう足掻くのか見届けてやるのも一興だろう。どうせ時間はまだ
あるのだ。
彼女は敢えて相手の目論見に乗ってやることにした。
階段はかなり急な勾配を持っていたが、長くは続かなかった。道路から五メー
トルほど上がった所で階段は終わる。それから先は、緩やかな坂が続く。道幅は
三メートル弱といったところだろうか。舗装されてはいないが、まるで獣道とい
うのでもない。そこそこに利用されてはいるのだろう。しっかりと踏み固められ
ており、歩くのに不自由はなかった。
少女は彼女より五メートルくらい先を行く。彼女は時折歩く速度を速めたり、
逆に緩めてみたりするが、その距離が変化することはなかった。これで少女が彼
女を何処かへ導こうとしているのが明らかになった。初めから彼女も承知の上で
はあったが、まだ気に入らないことがある。階段の下で彼女から視線を外して以
来、少女は一度たりとも後ろを振り返っていなかったのだ。
最初から、彼女が着いて来ると確信していたのか。彼女も少女も対極にあるが、
お互い人成らざる存在である。彼女が任意の人間の気配や行動を的確に捉えるこ
とが可能であるように、少女にも同様の能力が備わっているのかも知れない。た
だこれまで、彼女は寸前まで少女の接近を感じ取ってはいない。それならば一部
の力においては少女の方が彼女を上回っているのだろうか。
いや、それはあり得ない。
勝利者は彼女である。敗者が勝利者に勝る理屈はない。少女には実体がないが
ため、気配が掴みにくいだけのことである。
彼女は何かと根拠を探しては、繰り返し自分が勝者であるのだと確認していた。
それは無意識のうち、心に生じた焦燥感を打ち消そうとしていたのだった。
朝から続く動悸はいまだ治まらない。寧ろ少女と出会い、激しさを増したくら
である。
そして更に、彼女を苛立たせる要素がもう一つあった。
小学校の低学年から、高学年へと理由の定かではない変化を見せた少女の姿は、
それだけに留まらない。こうして歩きながらも、真似事の成長を続けていたのだ
った。
小学校の高学年、それから中学生。丁寧にも着ている物まで、学生服へと変わ
っていた。多少距離があるため、断定は出来ないが身長も既に彼女と大差ない。
その成長にどのような意味があるのだろうか。単に彼女をからかっているだけ
のようにしか思えなかった。
階段を昇り始めてから計って五分を越えた辺りか。まだ十分は経っていないだ
ろう。先を歩いていた少女の姿が消えた。山に沿って急なカーブをする道で、影
に隠れたのだ。一本道であるため、見失う恐れはない。ところがカーブを抜け見
通しのいい場所に出ても、少女の姿はない。彼女は少し足を速めて進んだ。しか
しいくら歩こうと、少女の姿は一向に見えて来ない。彼女の左側は草むらになっ
ていたが、その背は低く身を隠すのに適しているとは思えない。目測でここから
百メートル以上離れているであろう場所に、民家が見えた。右側は切り立った崖
で、高さは三メートル強あるだろう。無理をすれば登れなくもないだろう。ただ
あの少女がそれをするのかは疑問であった。
もともと実体を持たない少女である。突然姿が文字通り、跡形なく消えたとし
ても不思議はない。しかしそれならば、何故彼女をここまで導いたのだろうか。
ここは帰り道を見失い、さ迷うような場所ではない。たとえ樹海の真ん中に放り
出されたとしても、彼女が迷うことはない。それは少女も分かっているだろう。
所詮、敗者の無意味な嫌がらせだったのだろうか。
果たして少女の思惑が何であったにせよ、彼女はその場に足を止めて少しの時
間迷うことにはなった。当然、道に迷ったのではない。これからどうしたものか
と思案していたのである。
結局、彼女はこのまま進むことを選んだ。時間はまだある。戻ったところで、
特にやるべきこともない。途中で消えてしまったが、この先に少女が導こうとし
ていた何かがあるのかも知れない。なければないでも構わなかった。時間さえ潰
せれば、どうでも良かったのだ。
少し歩くと、黒い瓦屋根の建物が見えてきた。民家の屋根にしては些か大き過
ぎる。たぶん寺のものだろう。もしそこが、少女の導こうとしていた場所ならば
どうにも滑稽である。天使と寺、という組み合わせなど聞いたことがない。
寺からの帰りだろう。前方からこちらに向かって来る女性の姿があった。あの
少女とは関係ない、ごく普通の人間、中年の女性であった。思えば、この道に入
って人とすれ違うのは初めてだった。
横になってしばらく目を瞑ってみたが、眠れない。けれど起き上がって何かを
する気にもなれない。健司は薄暗い室内で、ただ天井を見つめているだけだった。
柱の時計は十時二十三分を示している。果たしてそれがいつの十時二十三分な
のか、停止した振り子から推測するのは不可能であった。
母を弔って以来、半年振りに訪れた実家は、健司にとってくつろげる場所では
なかった。よく知っているのに、どこか見慣れない感じがする。まるで他人の家
に無断で上がり込み、横になっているような感覚だった。
半年という時間は、まだ家を朽ちさせるには足りないのだろうか。見る限りで
は、目立った傷みはない。室内では埃も積もっていなかった。たぶん、先刻墓地
で出会った女性が、時折掃除してくれているのだろう。
健司には母以上に母のように思える女性の心遣いは有り難いものだった。きっ
といつか健司がこの地に戻って来る日のため、この家を守ってくれていたのだろ
う。しかしそれは間違いなく徒労に終わる。
健司は今日を最後に、二度とこの地に戻って来ることはないだろう。こんな田
舎である。ましてや犯罪者の育った家となれば、売りに出したところで買い手が
つくとは考えられない。そうなればやがてこの家には朽ち果てる以外の未来はな
い。
自分が生まれ育った家だ。それなりに思い出はある。
健司は幼い頃に父を亡くしていた。従って家計を支えていたのは母だった。朝
早くから夜遅くまで働いていた母。女手一つで子どもを育てる苦労は、想像に難
くない。ただ苦労した母に申し訳ないが、共に過ごす時間と比例して、母との思
い出は少なかった。代わりに、健司の思い出の大半を占めるのは一人の少女だっ
た。
田嶋優希、それが少女の名前である。
母親同士が古くからの友人であり家も近く、優希とは物心つくより前からよく
遊んでいた。所謂、幼なじみだった。
父の死後、働きに出た母に代わって健司の面倒を見てくれたのが優希の母親だ
ったのだ。そのため健司と一つ年下の少女は実の兄妹のように育った。
成長して行くに従い、健司の世話を焼くのは母親から少女の役目となる。大人
しい健司に対し気の強い少女は、妹というよりも姉のような存在であった。
何か音が聞こえた。
家鳴りではない。
健司の他に、家の中には誰も居ない。
空耳である、と分かっていた。
分かっていながら、健司は音につられ台所へと目を遣る。
とんとんとん、ととん、と、とんとと。
包丁がまな板を叩く音。
母親に比べて、お世辞にもリズミカルとは言えない。それどころか少々乱暴に、
音の高低が変化していく。
よくもあんな包丁さばきで怪我をしないものだと感心していた矢先であった。
「痛っ!」
短い言葉を発すると同時に左手の指が口元近くへと運ばれる。どうやら包丁で
指を切ったらしい。
「ほら、だから言わないこっちゃないんだ」
健司は茶箪笥の上から薬箱を取ると、台所に急ぐ。
「何が言わないこっちゃよ」
心配して来たというのに、健司は制服姿の少女から厳しい視線を投げられる。
振り向き様、束ねた長い髪が鞭のように健司の顔を叩いた。
「弘法筆を選ばず、よ」
少女は健司から、引っ手繰るようにして薬箱を取った。
「弘法も筆の誤り、じゃないのか?」
「あーっ、いちいちうるさい、うるさい」
少々ヒステリックな声が少女の口から放たれると、健司はつい、尻込みしてし
まう。少女はこの春中学校へ上がったばかり。健司は二年生になった。歳相応に
青年の体格に近づきつつある健司に対し、少女はまだ大分幼さを残している。だ
が小さい頃から刷り込まれて来た上下関係は、そう容易く覆るものではなかった。
健司が黙るのを待って、少女は絆創膏を指に貼る。しかしその間中、睨みつけ
るような視線は健司に向けられたままただった。
頭にはピンク色の格子模様が入った三角巾。制服の上から同じ模様のエプロン
を着けていた。エプロンの中心、お腹の辺りには仔猫の人気キャラクターが描か
れている。よく見れば、格子模様の間にも同じキャラクターの顔が無数に描かれ
ていた。
男勝り、の言葉をそのまま具現化したような少女にはおよそ似つかわしくない、
可愛らしいデザインである。もっともこの感想は健司の心の中に留まり、決して
口に出されることはない。それほど健司は愚かでない。
「だいたい、あんたねぇ」
薬箱を健司につき返しながら、少女は言った。
「さっきから、うだうだ文句ばかり言ってないで、少しは感謝の気持ちってもの
を態度に出したらどうなのよ。こんな美少女がアンタの晩ご飯を作ってくれてい
るのよ」
その台詞の中、殊更「美少女」の部分が強調されていた。
「よくもまあ、恥ずかしげもなく自分のことを、美少女なんて言えるよ」
とは思いながらも、当然これも言葉にはしない。
小さい頃、つい少女に口答えをしてしまい、その直後散々な目に会わされた経
験が生きていた。
「だから手伝うって、何度も言ってるだろう」
代わりに無難な言葉を返す。
「それは絶対にダメ。男の人を台所に立たせたら、私がお母さんに叱られるもの」
母親の躾なのだろうが、こうしたところは妙に古風である。出来るものならば、
男である健司に暴力的な態度を執るのも止めて欲しいところだ。
「さあさ、用事が済んだら、出て行きなさい」
薬箱を持った健司を突き飛ばすようにして台所から追い出すと、少女の手にし
た包丁は再び不規則なリズムを刻む。指を切った後に、何がそんなに楽しいと言
うのだろうか。少女は鼻唄を歌っていた。三年ほど前に流行った歌だ。優しい歌
だ。
包丁の不規則な音と、澄んだ歌声。
アンバランスな組み合わせだった。
台所を追い出された健司は、特にすることもなく、ただその歌声を聴いていた。
「さあ、召し上がれ」
芝居じみた動作で手が差し出される。
少女の顔には誇らしげな表情が満ち溢れていた。
きちんと正座し、期待を込めた眼差しでこちらを見つめている。自分の料理に
対する、健司からの評価を待っているのだ。
黒光りする木製のテーブルに並べられた品々には、少なくとも賑やかさだけは
ある。茶碗に盛られた白いご飯は電気釜の手柄だろう。ただ山のように盛られた
姿はこれまで漫画でしか見たことがない。昆布の佃煮は少女の母の作。その味に
間違いのないことは充分に承知している。小鉢の梅干しもやはり少女の母親が漬
けたものだった。
当の少女の作品と呼ぶべきものは二品。一つ目は豆腐とワカメのみそ汁だった。
豆腐の大きさが少しばかり不揃いであったが、味に与える影響はないだろう。汁
の色が濃いのも気に掛かるが、飲んで命を落とすほどでもあるまい。試しに一口
啜ってみると、予想に違わず辛かった。ただこれを褒めるのは、どうにも白々し
く思える。
もう一品はクリームシチューだった。
みそ汁があるのだから、なにも汁物を重ねなくてもいいだろうと思うが、勿論
口には出さない。だが褒めるのであれば、こちらの方が都合が良さそうだ。並べ
られた品々の中でメインと呼べる存在である。当然、少女の期待もこれに寄せら
れているのであろう。
健司は両手を添えて、クリームシチューの器を寄せる。出来立てとあって、器
を通し温かさが手に伝わった。
こちらの色は悪くない。メインと言っても市販の素を使って作ったものだ。よ
ほど大きく分量を間違いでもしない限り、失敗する可能性は低い。
健司は右手に蓮華を取る。スプーン代わりに用意されていたものだ。
ジャガイモに人参、玉葱、緑色はブロッコリーだろうか。マッシュルームらし
き姿も見える。まずはジャガイモへと狙いを定め、健司はクリームシチューに蓮
華を差し入れる。しかし大胆なサイズにカットされたジャガイモは、狭い蓮華の
上に収まりきれず、汁だけが掬われた。仕方なく健司はそれを啜った。
「あっ、美味い」
相手には、聞き取るのに困難さを強いるほど小さな声。
ため息のような感想が健司の唇から漏れた。
小さな声であったが、少女の耳にはしっかり届いたらしい。そしてそれは声を
張り上げて絶賛するよりも少女を満足させたようだ。珍しくこちらの言葉に乗っ
て自慢話、苦労話を始めることこそなかったものの、満面の笑みが少女の気持ち
を物語っていた。
それを見た健司は内心、しくじったと思う。
美味いとは、食する前にある程度の覚悟を決めていたからこそ漏れた言葉だっ
た。予想外に普通の味だったため思わず声が出た。しかし健司には少女のクリー
ムシチューを絶賛する意図などない。
願わくは二口目以降、問題が発生しないことを祈るばかりであった。
「うん、これもいい」
これは意識して言葉にした。
蓮華で小さく切って口に運んだジャガイモへの感想である。
サイズの不揃いさ、形の不恰好さは気になるものの、火は芯まで通って柔らか
い。他の具材にも問題はなかった。
健司も食べ盛りの年齢である。味に問題がないとなれば食は進む。ところが器
の中身もあとわずかのところへ来て、一つの問題に気づいた。
残り少なくなった汁を掬うため、器の底を擦るようにして蓮華を動かす。蓮華
を通し、じゃり、とした感触が伝わって来た。どうやら、汁の底にクリームシチ
ューの素が溶けきらずに残っていたらしい。
引き上げた蓮華が掬ったものは、液体ではなかった。良く言えばペースト状、
悪く言うならば泥状になったシチューであった。
健司は上目遣いで少女を見遣った。相変わらずの笑顔。
元々喜怒哀楽の激しい少女ではあったが、これほどまでに上機嫌な表情を見せ
るのは珍しい。クリームシチューの素が溶けきらずに残っていた。そんな些細な
ことをわざわざ指摘して、機嫌を損ねる必要もない。健司は、蓮華の上のものを、
黙って口へと運んだ。
薄暗い部屋の中で、目が覚める。
健司は潰されたバネが勢いよく戻るかのように、飛び起きた。そして台所へと
視線を送る。しかしそこに求めた姿はない。まな板を叩く、不規則な音はない。
ああ、そうか。
声もなく呟く。
少女はもういないのだ。
些細なことに憤慨しては、健司に向けられた怒鳴り声はもう聞こえない。
恥らうことなく、大きく笑う声はもう響かない。
あるのはただ、紫色の闇。
あの日、少女の全てが消えたときのまま、止まった時間。
失ったものの大きさは、時が経てば経つほどに増して行く。身近すぎて疎まし
くさえ思うことのあった存在が、自分にとって如何に大切であったかを、いまに
なって知る。
健司は人気のない台所を見つめ、幻の少女を思い浮かべた。
ひい、ふう、みい。
台所を見ながら、健司は指を折る。
少女が自分のためにクリームシチューを作ってくれた回数を数えたのだ。
初めてのクリームシチューから、その後幾度となく少女は食事の世話をしてく
れた。何もクリームシチューばかりを作っていた訳ではない。いろんな料理へと
挑戦をしていた。失敗も多かったが、中には出来栄えの良かったものも沢山あっ
た。しかし何故だかクリームシチューは健司にとって特別な存在になっていた。
少女が初めて作ってくれた料理、ということもあるだろう。健司の中で、クリー
ムシチューの味は少女の思い出と一体化していた。
そのためもあってか、他の料理は忘れてしまったが、少女がクリームシチュー
を作ってくれた回数だけは明確に覚えている。
あれは落雷を伴った夕立のあった日だった。
あれはその冬一番の寒波が訪れた日だった。
あれは中間テストの二日目だった。
一本一本、その日の出来事を思い起こしては指を折る。が、少女との記憶のな
い一本を折っていたことに気がつく。
少女と同様、健司にとり特別な食べ物となっていたクリームシチュー。少女が
消えたとき以降、口にすることはなかったはず。
「ああ……」
少し考えて、健司は折ってしまった指の理由を思い出した。わずか数日前、少
女と同じ名を持つ彼女が作ってくれた、クリームシチューを。
たとえれば道端に転がっている石ころ。あるいは空き地に生えている雑草。
彼女の目的には何の関わりもない。気に掛ける必要性は全くない。
それがそこにあるということにさえ、気づきもせずに通り過ぎる。彼女にして
みれば、中年女性はその程度の存在に過ぎない、はずだった。街中で出会った者
たちの、殆ど全てとの関係がそうであったように、一瞬の間にすれ違い二度と会
うことはない。思い出すどころか、記憶の片隅にも残らない。それだけの関係に
終わるはずだった。
しかし中年女性が発した小さな叫び声は、彼女の足を止めさせる。それは明ら
かに、彼女の顔を見て発せられたものであったからだ。
「何か?」
彼女は女性へと問う。
別に訝しんでのことではない。
目的には全く関係のない者が、自分に対して何を思おうと興味などなかった。
足を止めたのも、声を掛けたのも彼女の単なる気まぐれからだった。
返答はなかった。
それ以前に、彼女の声も耳に届いていないようである。女性は目を見開き、惚
けたような表情で彼女を凝視していた。
震える唇から、微かに声が漏れる。
「………ゆうき……」
聞き取りにくい声ではあったが、確かにそう聞こえた。
「何か?」
耳に届いた声を無視するかのように、彼女は問いを繰り返す。中年女性が口に
した名前に答えると、何か面倒になりそうだ。と、直感したのだ。
「あっ、ごめんなさい」
ようやく我に返った女性は、深々と頭を下げた。そして微笑む。しかしその微
笑は、どこか寂しげだった。
「あなたが、知っている人と、あまりにもそっくりだったから。本当にごめんな
さい」
再び女性は頭を下げる。
「人違いでしょう。私はあなたを知らない」
「え、ええ。分かっています。その人はもう、この世にはいない人ですから」
「そうですか………」
これ以上、女性と関わる必要もない。彼女は短い会話をそれまでとして、止め
ていた足を動かそうとする。
「本当にごめんなさいね」
三度、女性が頭を下げた。