AWC 白き翼を持つ悪魔【06】            悠木 歩


前の版     
#277/598 ●長編    *** コメント #276 ***
★タイトル (RAD     )  06/08/25  22:54  (432)
白き翼を持つ悪魔【06】            悠木 歩
★内容                                         06/08/26 21:43 修正 第2版

「一応の手当ては済んだけど、やっぱり医者に行ったほうがいい」
 救急箱の蓋を閉じて、健司は言った。彼女の顔は見ないで。
「ああ、本当にすまなかった」
 たぶん彼女も健司を見ていないだろう。あるいは健司を恨んでいるのかも知れ
ない。迷惑を掛けた、すまない、とそれしか言わない彼女が自分を責めてくれれ
ば、いくらか心が救われるだろうに。健司はそう思っていた。
 もうこれ以上、ここにいてはいけない。
 静かに立ち上がった健司は、玄関へと歩き始める。何も言わず、部屋を出るつ
もりだったが、ドアの前で足が止まった。やはり一言、彼女に言葉を掛けておき
たいと思ったのだ。
「こんなトラブルは迷惑だ。もう、二度と会うのは止めにしよう」
 三十秒以上費やして、ようやく出た言葉だった。
 自分には、つくづく文才がないな、とその口元に笑みを浮かべながら。
 言霊、というものを聞いた覚えがある。確か言葉には魂が宿っており、口にし
た言葉が現実となる。
 そんなことを唐突に思い出したのは、いま口にした言葉が現実になると知って
いたからだった。
 彼女の返事も、反応も待たない。健司はそのまま、部屋の外へと出て行く。
「ありがとう、楽しかった」という言葉を彼女に聞こえないように発しながら。



 後は待つばかりである。
 立ち去る青年の背中を見送り、彼女はほくそ笑んでいた。
 出会った当初、彼女の感じ取った青年の心の奥底にある何か、その正体はおお
よそ分かっていた。青年の感情を揺さぶることで、甘くなった扉の隙間から、彼
女の能力なら容易に覗き見ることが出来たのだ。
 あとはそれをどう動かすかである。しかしそれはさして難しいことではない。
 青年の心の中にあったものは、いつでも外に出ようと機を待ち続けていた。そ
れを後押ししてやればいいだけである。唯一、青年の持っていた優しい記憶。そ
こに少し傷を入れてしまえば、心の堰は簡単に崩壊するだろう。
 彼女の予想通りだった。

 堰を切り、流れ出した水は誰にも止められない。
 動き出した青年の心は、もうきっかけを作った彼女にすら、止めることは不可
能であろう。
 おそらく、明日の朝からでも青年は行動を起こすはずだ。彼女はただ、その結
果を待つだけでいい。
 彼女はその身をベッドに横たえた。「成すべき事を成す」ためとはいえ、少し
ばかり無理をし過ぎたようだ。身体中が痛く、そしてだるい。
「思った以上に、厄介なものだ………」
 一人呟く声も、かすれていた。
 彼女の本体である右半身ばかりか、仮初めでしかないはずの左半身にも痛みは
及ぶ。人の姿を取るということは、その機能まで等しくなるのだろうか。常人で
あれば、悶絶するほどの痛みの中、彼女はただそれを不便に感じるだけであった。
 一晩眠れば、痛みも消える。
 何も根拠はなかったが、そう信じ、彼女は瞼を閉じた。

 その夜、彼女は高熱を発した。
 夢なのか、現実なのか、定かではない意識の中で彼女は自ら奇妙と感じる思考
を繰り返していた。
 間違ってはいない、間違ってはいない、間違ってはいない………
 同じ言葉を、まるで自分に言い聞かせるかのように続ける。ただ何が間違って
いないなのか、自分でも分からずに。
(間違っている)
 突然、意識の中に繰り返す彼女を否定する、別の声が割り込んで来た。どこか
で聞いた覚えのある声だった。
 誰だ、と誰何する彼女の視界は、白色の光に包まれる。愉快な感じはしないが、
夢か現実か区別出来ない状態では、特に不便もない。
 また貴様か。
 彼女の口からは、ため息の混じった笑みが零れる。
 彼女を監視し、妨害する者。人が天使と呼ぶ存在。
 声を耳にするのは、これで三度目となるか。朦朧とした意識の中ではあったが、
今までになく、その声ははっきり聞こえていた。
(間違っている)
 同じ言葉を繰り返す。その声は、悲しげであり、苦しげでもあった。
 彼女は確信する。その者が天使であろうと、なかろうと、全く以って無力な存
在なのだと。
 ほざけ。
 侮蔑よりも、哀れみを顕に彼女は言った。
 間違っていると言うのなら、行動で正してみろ。貴様の姑息な力でも、私の計
略を邪魔する程度のことは出来ただろうに。そうだ、あの時、公園でしたように。
 今日の彼女の行動には天使の立場からすれば、妨害する機会は幾らでもあった
はずだった。彼女が青年の部屋を訪ねること。そこへあの女が現れること。故意
に彼女の忘れて行ったものを、青年が届けようとしたこと。更には女が男を伴い、
彼女の前に現れたこと。
 もしその何れかを公園の時のように止められていたならば、彼女の計画は成り
立たなかった。しかし、計画は予定通りに行われている。どうやら、いま彼女に
話し掛けている天使は、ごく限られた能力しか持たないようだ。ただ光を放って
みたり、こうやって姿を見せずに話し掛けてみたり、という程度のものである。
いまにして思えば公園での一件は、ただ突然の光に、彼女が怯んでしまっただけ
のことではないだろうか。実際には身体の自由は利いていたのに、彼女自身が勝
手に動かないものと思い込んでしまった。そう考えれば辻褄は合う。
 その証拠に天使はこれまで一度も、物理的な方法で彼女の前に立ち塞がったこ
となど、ないではないか。あるいは実体すら持たない存在なのかも知れない。い
や、こうなるとそれが天使であるかどうかも、疑わしい。
(私に出来ることは………)
 投げ掛けた言葉に答えてか、あるいは彼女の心を読んだのか、どこか苦しそう
な声が響く。それだけで、彼女は相手に対し、自分が有利な立場に在るのだと感
じた。

(私に出来るのは、あなたの望むことだけ)
 はあ? 何を言うのだ。
 思いもかけない答えに、彼女は呆れてしまう。失笑すら出ない。
 無能な者は、言い訳する才能も持ち合わせてはいないらしい。もう彼女の計略
が完了するまでの間、天使がその妨げになる心配は全く必要ない。同時にほんの
一時、ほんのわずかにでも天使に警戒心を持った自分が、可笑しくてならなかっ
た。
(思い出して)
 今度は懇願する声に変わっていた。彼女を敵わぬ相手と悟り、媚を売るつもり
だろうか。
 彼女の方も、ようやく光に目が慣れつつあった。暗闇に在っては決して失うこ
とのない視界も、光の中では思うようにならない。存外、悪魔というのも不便な
のだなと感じる。
 彼女は眩い光を背にして立つ影を確認した。それは、予想していたものより、
随分と小さい。子どものようだ。
 妙だな。
 彼女は呟く。
 いままで彼女が聞いていたのは、若い女性の声ではあったが子どものものでは
ない。
(思い出して)
 逆光であるため、表情までは見て取れなかったが、影の口元が言葉に合わせて
動くのは分かった。
 こいつ、どこかで………
 見覚えがある。まだ輪郭すら朧気にしか見えない状態だったが、どこかで一度
その少女とは会っている。そう彼女は感じた。
 もっと近寄って顔を確認しようか。そう考えて動きかかった足だったが、ふと
思い止まる。代わりに額へと手を翳して目視にての確認を試みた。
 光に対し、眩まない程度まで慣れてきた彼女の目は、遂に少女の顔貌を捉えた。
 お前は。
 わずかに驚く彼女だったが、なぜか納得する心のほうが大きい。
 あれは先日、駅の近くで見かけた少女。確か名前は「ゆうき」と呼ばれていた
か。と、思い出したところで、彼女の意識はこの夢か現か定かでない空間を後に
することとなった。


「いまのは夢………だったのか?」
 呟く声は掠れていた。激しい喉の渇きを覚え、彼女はゆっくりと身体を起こす。
完全に、とまでは行かないが、昨夜に比べ痛みは和らいでいる。
 ベッドの横のカーテンを指でそっと捲る。夜の名残を残しつつも、外は仄かに
明るくなり始めていた。新聞配達だろうか、どこからかバイクのエンジン音が聞
こえる。
 室内に目を戻し、時計を見た。
 午前四時二十分。
 それからキッチンへと向かう。蛇口が視界に入った途端、喉の渇きが極限へと
達する。
 グラスを出す間さえ惜しかった。勢いを最大にした水の流れに、両の掌を充て
て喉へ送り込む。しかし飲むほどに渇きは増し、遂には蛇口に直接口を充てて水
を飲み始める。
 数分間、地獄の餓鬼にも勝る勢いで水を飲み続けたが、カルキ臭い味に飽きて
ようやく口を離した。口内に収まらなかった水が、口元から喉へ、喉から胸へと
滴り落ち、下着を濡らす。
 ぜいぜいと鳴る息遣いを聞きながら、彼女は自分を浅ましいと感じた。
 息が整うのを待って次は洗面所に向かった。鏡を見るためである。
 痛みが和らいだとはいえ、顔にはまだ昨夜の暴行の跡がはっきりと残されてい
た。腫れは大分引いていたが、痣はまだ目立つ。それでもすっかり変形していた
顔が、ほぼ元の状態に戻っているのは、驚異的な回復と言っていいだろう。もし
あの後、病院に運び込まれていたならば、さぞかしその回復力は医者を驚かせた
だろう。
 頬の膏薬をはがし、そこに前よりも鋏で小さく切ったものと貼りかえる。多少
目立ってしまうが、痣をそのまま晒すより幾分いいだろう。彼女は外出を予定し
ていた。
 彼女が直接手を下すべきことは、もうない。これからは、青年が全てを勝手に
行ってくれるはず。彼女はただ待っていればいい。
 だが彼女は、それを自分の目で直に見届けなければならない。そんな気持ちに
急き立てられていた。昨夜見た、夢のせいであろうか。無力な天使に水の流れを
止められるとも思えないが、万に一つの可能性も見捨てては置けない。
 それからもう一つ、彼女を動かそうとする事実があった。悪魔の眷属であるは
ずの彼女自身、意識的に無視をする事実があった。
 目覚めた時から、いま尚続く激しい鼓動。目眩を起こしそうなほどの動悸が彼
女を駆り立てていた。



 規則的な揺れと規則的なリズム。
 窓から射し込む暖かな光。

 座席に着いていたなら、眠ってしまいそうな陽気であった。
 笠原健司は故郷へ向かう列車の車中に在った。
 乗客は定員の三割にも満たない。空席の多い中で、健司はドアの横に立ってい
た。眠らないように、それだけが立っている理由ではない。
 少ないが、皆無でもない。自分以外にも乗客はいる。健司はなるべく、他人と
空間を共有したくない気分だった。いまならまだ、後戻り出来る。しかし健司の
頭の中にはもう、後戻りするという選択肢はない。突き進む以外、道はないのだ。
いや、むしろ前に進むには遅すぎたくらいである。

 半年前、健司にとって唯一の身内である母が他界した。健司が心の奥に隠した
計画を遂行すれば、最も悲しみ傷つくであろう母。母を亡くしたあの日、計画を
躊躇う理由もなくしたはずだった。
 自分に意気地がなかったからだ。健司は思う。
 意気地さえあったなら、とうに全ては終わっていた。全てを終えていたなら、
彼女を昨夜のような目に遭わすこともなかった。
 いつしか車窓から見える風景に、高い建物の姿が極端に減っていた。代わって
田畑や林、瓦屋根の民家が目立ち始めていた。
 それではもし、彼女と出会っていなければどうなっていただろう。健司は心の
奥に黒い感情を抱いたまま、それを解放する日を夢見るだけで一生を過ごしてい
たのかも知れない。
 ふと思う。田嶋優希の名を持つ彼女と出会ったのは、単なる偶然だったのだろ
うか。あるいは計画するばかりで、いつまでも実行に移す気配のない健司を促す
ため、もう一人の田嶋優希が導いたのではないだろうか。
「まさか、な」
 つい、言葉を口に出してしまった健司に、怪訝な視線をくれる者がいた。次の
停車駅で降りるつもりなのだろう。ギターケースを抱えた若い男が半ば喧嘩を売
るような目でこちらを見ていた。だが特に問題がある訳でもない。健司は男を無
視する。男も少しの間視線を向けてはいたが、すぐに到着した次の駅で、何事も
なかったように降りて行った。
 そして再び電車は走り出す。
 いずれにしろ、彼女には申し訳ないことをしてしまった。健司は田嶋優希と同
じ名を持つ彼女に心が惹かれて行くのを感じていた。しかしいま、冷静になって
思えばそれは単に彼女に田嶋優希の代用を求めていただけに過ぎなかったのだ。
そのために彼女をあのような目に遭わす結果になってしまった。
 もう二度と会わない。
 そう誓ったものの、彼女の容態が気に掛かる。あれだけの大怪我だ。今朝もま
だ痛みは続いているだろう。あるいはまだ、ベッドの中で苦しんでいるかも知れ
ない。やはり彼女に拒まれようと、昨夜のうちに病院へ連れて行くべきだった。
それだけが後悔されてならない。たぶん、この気持ちは健司が生きている人間に
対して向ける、最後の思い遣りとなるだろう。
 やがて電車は目的地へと到達した。



 驚異的な回復を見せたとはいえ、完璧に治った訳ではない。若い女性の顔に残
された傷痕は、人込みに在っても目立つものであるようだ。時折、すれ違う人間
の中には足を止め、驚きの視線を投げてよこす者もいた。鬱陶しくはあったが、
いちいち相手にする価値もない。彼女は無視を決め込み、ただ進む。
 飛び乗った電車は、凶悪なまでの混雑を見せていた。それは彼女が初めて街に
立った時の交差点など比較にはならない。立錐の余地もない、とはこのことであ
ろう。四方、八方全ての方向に立ち並ぶ人間たちに、隙間というものが全く存在
しない。香水やオーデコロン、すえた汗や体臭、その他正体不明の臭いが狭い空
間に充満する。それらはかつて、彼女の眼前にまで迫った巨大蛆虫の吐く息以上
に不快なものであった。加えて、電車が揺れる度、あらゆる方向から押し寄せる
圧力には殺人的な勢いがあった。脆弱な人間が、よくもこのような場所で死者を
出さずにいられるものだと感心してしまう。あるいは彼女が知らないだけで、数
名の死者が出ているのだろうか。
 しかし凶悪な混雑も、巨大なターミナル駅を過ぎた途端、その名残すら感じら
れぬほどに緩和された。そこからさらに三つ目の駅を過ぎた辺りで、車両内の乗
客はほとんどが姿を消す。
 この状態で立っている理由はない。彼女はボックス型に並べられた座席に、進
行方向を向いて腰掛けた。

 流れる車窓からの風景を眺めていると、わずか十分ほど前までの混雑が、錯覚
であったかのようにさえ思えてしまう。窓ガラスを通して射し込む陽の光は暖か
く、ぼんやりとしていたなら、眠気を誘っていただろう。しかし緊迫感を持った
彼女は、睡魔に負けることはない。
 彼女がこの電車に乗ったのは、青年の後を追うためである。後を追って、全て
をその目で見届けるためであった。もちろん青年がどこに向かったのか、彼女は
聞いていない。それどころか、実際に青年が街を出たのか、いや、アパートを出
たのかも確認していなかった。彼女は何もかも、自分の勘を頼りに動いているに
過ぎない。もっとも彼女はその勘を疑う必要がないと知っている。悪魔の眷属で
ある彼女の勘は、彼女を目的のため常に正しい方向へ導いてくれることはこれま
でに立証されていた。
 特別な能力でもある彼女の勘は、青年の背中を押した時点で「成すべき事を成
す」と言う、目的の成功を確信していた。妨害者である天使も、それを止めるだ
けの力を持ち合わせてはいないと教えてくれた。
 だがそれでもなお、突然芽生えた不安を拭いきれない。
「田嶋優希………」
 呟く名前。あるいは芽生えた不安の、一番大きな原因はその名前なのだろうか。
 青年の古い知人の名であり、彼女が名乗った名前でもある。彼女がその名を使
ったのは、たまたま手にした通帳とカードに記された名前だったからだ。
 初め、その通帳は悪魔が彼女のために用意したものだと考えた。確かに田嶋優
希の名前は、青年に近づくため都合のよいものであった。しかしいまではそれも
怪しく思える。
(思い出して)
 そう叫んだ夢の中の天使。その言葉の意味が、彼女を不安にさせる。
 意味などはない。苦し紛れの捨て台詞に過ぎない。そう結論付けるのが妥当で
あろう。ただ、叫ぶ天使の姿が幼い田嶋優希であったことで、その結論が彼女の
中で肯定されない。
 もしあのカードと通帳が、天使の用意したものであるとしたなら、話は違って
来る。
 青年との出会い。その心の奥底にあるものを感じ取って練り上げた計画。そし
て遂行するに至るまでの全てが、天使の導きであった可能性も生まれる。
 天使には彼女の行動を物理的に妨害する力はない。公園での一件については、
些か説明のつかない部分もあるが、それはまず間違いない。しかし間接的な方法
で、彼女を誘導することまでも不可能とは言い切れない。
 朝から感じている焦燥感は、そんな不安があるためだ、と彼女は考えていた。
 だから、このまま青年の後を追って全てを見届けよう。彼女が思い描く通りの
結末を迎えればよし。もしそうでないのならば、力ずくでも予定した結末に向か
わせればいいのだ。何者の導きであろうと、どんな妨害があろうとも、必ずや成
すべき事を成してやる。彼女は、固く心に誓っていた。
 そうすれば。
 ふと思う。
 そうすれば、どうなるのだろう。
 成すべき事を成した後、自分はどうなるのだろうか。
「成すべき事を成せ」
 その命に従い、これまで動いてきた。しかし命を果たした後、自分はどうなる
のか、地獄の王は何も言及していない。なおも人の世に留まり続けるのか、地獄
に帰るのか。悪魔として存在し続けるのか、あるいは消滅してしまうのか。何も
聞かされていない。
「まあいい………」
 漏らした言葉は、決して強がりなどではなかった。本心である。
 血の海の中、右半分だけの身体で浮いていた彼女。命ある者としては不条理な
姿で、命ある者のように考え動く彼女には、王に与えられた命令のみが己の存在
理由だった。従い、行動する他に、欲求などない。未来へ希望するものなどない。
 たとえ成すべき事を成した途端、陽の光を浴びた吸血鬼のように、その身体が
灰となり崩れ落ちるのだとしても構わない。自分の存在が失われること、死への
恐怖はない。命を持ち、それを守るのに懸命となる人とは違う。
 そんな考えも、意識も遠くなって行くのを、彼女は気づいていなかった。
 窓から射し込む暖かな陽光。
 心地よい電車の揺れと音。
 彼女は眠りに落ちて行く。
 疲れ果てた人のように。

 何か音が聞こえる。
 朦朧とした意識ではあったが、わずかに覚醒しつつある聴覚がその音を探ろう
とする。

 ちゃぷ、ちゃぷ、ちゃぷ………
 規則的に聞こえる音。水音のようだ。
 まるで海水の流れ込む洞窟で聞くような音が、彼女の耳孔を木霊する。
 何だこれは、確か前にも一度………
 聞いた覚えがある。漠然とした思考では、記憶を辿るのにも困難を極めた。し
かし暫しの時を経過すると共に、眠っていた意識、五感がそれぞれの機能を取り
戻して来る。
 岩戸の如く、重く閉ざされていた瞼が、一気に開かれる。彼女の目に飛び込ん
だ風景は、瞬時には理解し難いものであった。
 塊となった闇とゆらゆらとうねる光の帯。光のうねりに合わせ、自分の身体も
揺れているのが分かる。
 そうか、自分はいま水中に居るのだと彼女は気づいた。彼女の視線の少し上に、
幾つもの歪な輪と、粒になった光が見える。それが水面なのだろう。
 彼女はいま、水の中に漂っているのだ。
 戻ってしまったのだろうか。
 彼女は再び、瞼を閉じた。
 最初の場所。彼女にとって一番古い記憶の場所である、血の海の中にまた戻っ
ていたのだった。
 いや、違うのかも知れない。
 戻って来たのではなく、彼女はずっと血の海を漂い続けていたのではないだろ
うか。これまで見て来たもの、行って来たことの全ては、血の海の中で見続けた
夢。そうだったとしても、些かの不思議もない。
「違う!」
 もう一度、瞼を開く。
 大きく目を見開き、視線を巡らせる。
「やはり違う………」
 違和感の正体に気づき、彼女は心の中で呟いた。
 いま彼女が漂う水中には、赤い色が見られない。血の海ではないのだ。更には、
水のうねりに合わせ、揺らめく光の柱がある。光、それはあの地獄の世界で、見
かけることのなかった存在だった。
 そして何より、水と光、それらのものを見ている彼女の目が問題なのだ。
 彼女の身体は、かつて血の海の中で目覚めた時と同じ姿勢にあった。すなわち、
身体を左側に傾ける形で水中に在った。
 あの時、最初に彼女の視覚が捉えたのは、黒い水面であった。だがいまの彼女
の目に映っていたのは、水中の風景である。
 彼女は左手を動かそうと試みた。試みは容易く実行される。所有者の意思に従
い、左手は掌で彼女の視界を遮る。彼女の目は闇に閉ざされ、何も映さない。少
し間をおき、掌を目の前から除けると、また水中の光景が映された。
 これで間違いはない。彼女はあの時間、あの場所に戻った訳ではなかった。そ
れは何も目に映る光景ばかりで判断したのではない。あの時とは決定的に違って
いるものがあった。
 彼女は左手で自分の視界を遮った。掌を左の目に充てて、だ。
 そう、あの時の彼女には右半身しかなかったはずである。彼女の左半身は鏡に
映った偽りの存在。地獄の王の手によって作られた。地獄の王と出会う以前、血
の海に漂っていた彼女に有るはずのないものだった。
 偽りの半身で、彼女は水中の光景を見ている。それでは、真の彼女である半身
は、どうなっているのだろうか。それを確かめるため、彼女は右腕を動かそうと
した。

 確かな手応えを、右手と右の頬とで同時に感じる。顔を上げた彼女の目に飛び
込んで来た光景は先ほど見たものとは異なっていた。眩しい陽を受け、光の粒を
幾つもに乱反射させる海。その右側に、まるで心霊写真の如く、微かに浮かび上
がる女の顔。
 それは車窓に映し出された光景であった。そこに浮かぶ女の姿は、ガラスに映
る彼女自身の顔だった。
 夢であったのか。
 一人、得心する。
 まさか車窓から見える海に影響されて、あんな夢を見た訳ではあるまい。しか
し悪魔であっても人のように無意味な夢を見ることもあるのだな。そう考えると
奇妙な気分になる。今朝ほどの夢とは違う。天使とも、あるいは悪魔とも、彼女
以外の第三者による意図が全く感じられない夢であった。
 ふと気づくと窓ガラスに映る女の顔が、彼女の知らない表情を見せていた。
 微笑。
 何かを企んでいるのではない。
 誰かを嘲笑しているのでもない。
 窓の向こうの彼女は、穏やかな笑みを浮かべている。そう言えば、顔の腫れも
朝より幾分、良くなっているだろうか。
 疲れていたのだろう。
 彼女が何者であろうと、どれほどの能力を持っていようと、この数日間「成す
べき事を成す」ため無意識の緊張が続いていた。まして昨日は様々な出来事があ
り過ぎた。疲労も蓄積していたに違いない。少しばかりの睡眠であったが、それ
が疲労を和らげたに違いない。自分が初めて作った表情の理由を、彼女はそう結
論付けた。
 そして車内には、彼女の降りるべき駅の名がアナウンスされた。



 海からの風は凪いでいた。
 白い煙は真っ直ぐ、天に向かい伸びて行く。
 柄杓からの水を受け、石は黒く光っていた。
 石の前には質素な花束と、赤く艶やかな苺。少女の好きだった果物が供えられ
ている。
 静かに目を閉じ、手を合わせた健司は、もう五分以上そこでそうしていた。も
し思い出したように吹き抜けた風が、髪や衣服を靡かせていなければ、そこに居
合わせた者は健司も墓石と対になったオブジェと信じただろう。
 健司が動きを取り戻したのは、背中越しに掛けられた声のためであった。
「ケンちゃん………笠原健司くん?」
「おばさん」
 振り向いた先に居たのは、健司の見知った女性であった。まだそれほどの歳で
はないはずだが、前に会った時よりまた老け込んで見える。白髪が増えたようだ。
「ご無沙汰しています」
 健司は深く頭を下げた。墓石に向かうより、さらに神妙な面持ちで。
「そう、お参りしてくれたのね。ありがとう、あの子もきっと喜んでいるわ」
 女性は微笑みながら言った。健司の知る、他の誰よりも優しい表情であった。
しかし他の誰よりも切なく見えた。
「いえ、母の………ついでですから。今日は優希の月命日だったんですね」
 言いながら健司は墓石を見遣る。
 お転婆でよく笑っていた少女も、いまでは言葉を発さぬ黒い石の塊となってし
まった。健司はそれが悲しいと言うより、悔しかった。
「健司くん、今日はあの家に? そうだ、よかったらおばさんの家に、ご飯食べ
に来てちょうだい。うん、そうよ、こっちに居る間、おばさんの家に泊まるとい
いわ」
 にわかに女性の表情から翳りが消える。
 いかにも名案を思いついたとばかり、胸の前で両手を合わせる仕草は幼い少女
のようだ。その姿が健司の後ろ、墓の下で眠る少女の面影と重なる。
「ありがとうございます。でも今日はちょっと用事があって」
「そう………でも、しばらくこっちに居るんでしょう。だったら明日でも………」
「本当にごめんなさい。今回はゆっくりしていられなくて、すぐにここを出るこ
とになりそうなんです」
「まあ、残念だわ」

 女性の顔にまた翳りが戻った。その様子から、女性が決して社交辞令でものを
言っているのでないと分かる。健司が物心のつく前より、実の母以上に面倒を見
てくれた人だ。いまでも実の子のように健司を思ってくれているのだろう。健司
もまた、死んだ母以上に女性を思っていた。
 心の整理は既に着いている。ただ健司が全てを成し終えた後、きっとこの女性
は悲しむのだろうと思うと、胸が痛む。
「この次………この次は必ず。おばさんが駄目だと言っても、お邪魔しますから」
 まさか自分の計画が悟られるはずもない。そう思いながらも妙に緊張をしてし
まう。それを誤魔化すため、健司は精一杯の笑顔を作る。
「約束よ」
 そう言って差し出された手に、健司は一瞬戸惑った。だがすぐにその意味を悟
り「ええ」と答えて右手の小指を、女性の小指と絡ませた。
「それじゃ、また」
 恐らくこれが永久の別れになるだろうと知りつつ、近いうちの再会を約束して
健司はその場を後にした。丁度、海に向かって歩いて行くことになる。
 墓は高台に作られていたため、遮るもののない視界に飛び込む海は、とても大
きかった。こうして歩いていると、まるで海に吸い込まれて行くような気分にな
る。気分だけでなく、このまま本当に海に飛び込んでしまえば、どれほど楽であ
ろうか。あるいはほんの少し前の健司であったなら、本当にその道を選んでいた
かも知れない。
 しかし昨夜の事件をきっかけに、健司は変わっていた。いや、正しくはあの日
から偽り続けていた自分を捨て、心の奥底に隠していた真実の姿に返ったと言う
べきだろうか。
 何かを小さく呟く顔に、凶悪な笑みが浮かんでいた。




元文書 #276 白き翼を持つ悪魔【05】            悠木 歩
 続き #278 白き翼を持つ悪魔【07】            悠木 歩
一覧を表示する 一括で表示する

前のメッセージ 次のメッセージ 
「●長編」一覧 悠歩の作品 悠歩のホームページ
修正・削除する コメントを書く 


オプション検索 利用者登録 アドレス・ハンドル変更
TOP PAGE