AWC 白き翼を持つ悪魔【05】            悠木 歩


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★タイトル (RAD     )  06/08/25  22:50  (388)
白き翼を持つ悪魔【05】            悠木 歩
★内容                                         06/08/26 21:36 修正 第2版


 憂鬱さと期待感の入り混じった複雑な心境であった。
 たいして物がある訳でもないが、それでも出来る限りの片づけはした。一度は
見られた部屋であるが、綺麗にしておくに越したことはないだろう。
 時計に目を遣れば、約束の時間まであと十分と迫っていた。
 こうやって準備を整え、来客を待つなどとは、いつ以来のことであろう。
 一昨日の朝から、健司の思考はどれほど激しく巡らされたことか。
 極力関わりを避けようと決意した直後であったが、彼女の言葉を断れなかった。
いや、関わりを避けるとは言いながら、心のどこかではこうなることを期待して
いたのかも知れない。
 やはり断ろう。そうだ、彼女の所に直接弁当箱を持って行けばいい。それで事
は済む。いや、しかし彼女のアパートは女性専用だ。身内でもなく、特に親しい
間柄でもない自分がのこのこと出向いていい場所でもないだろう。周りの住人、
そして彼女にも怪しまれるかも知れない。そもそもそどこであったにしても、女
性の一人暮らしする住まいに男が訪ねて行くというのは礼儀に反している。
 第三者に話したとしたら、「下らない」の一言で片づけられてしまうであろう
考えを、幾度となく繰り返す。
 健司自身まだ気づいていなかったが、その間ここ数年来彼を支配し続けていた
思考は、完全に忘れられていた。
 彼女が来たら、何を話せばいいだろう。いや、弁当箱を渡したら、早々に帰っ
てもらおう。しかし多分、彼女の顔を見てしまえば、早く帰ってくれとは言えな
いだろう。
 関わりを持つまいと思う一方、健司の中で彼女の存在は少しずつ、その大きさ
を増してゆく。それはかつて同じ名を持つ女性に対し、抱いていた感情にもどこ
か似ている。ただ、健司自身はそれを認めたくなかった。認めてしまえば、いつ
の日か、果たさなければならない誓いが失われてしまう。その自らへの誓いこそ
が、今日まで健司を支えてきたものなのだ。いまさら捨てられはしない。
 こんこん。
 軽く二回。健司の思いを中断させるかのように、部屋の戸がノックされた。
「いるか?」
 と、彼女の声。時計を見ると、時刻は約束の二分前であった。
「あ、鍵は開いてる………」
 言いながら健司は立ち上がり、戸を開けようとする。だが健司を待たず、戸は
訪問者の手によって開かれる。そしてそこには、相変わらずどこか不機嫌そうな
彼女の顔があった。
「ああ、弁当箱だよね。ちょっと待ってて」
 奥、と言うほど広くない部屋の、戸とは反対側に用意していた弁当箱を取るた
め、健司は踵を返す。裸で返すのも無礼かと、風呂敷に包んでおいたのだ。昔、
母に習った風呂敷の使い方が役に立った。
「後でいい。それより、キッチンを借りる」
 突然の申し出に戸惑う健司だったが、彼女の方はその返事を待たない。案内も
必要はない。戸を開けた目の前が、「キッチン」などという言葉が仰々しく思え
る、小さな台所であった。
 彼女は何やら少々大きめのリュックサックを背負っていた。台所に立つと狭い
場所で、窮屈そうにリュックサックを下ろす。
「この部屋には電子レンジがなかったから」
 そう言いながらリュックから取り出したのは、食品用のタッパーだった。健司
の位置から中身の確認は出来なかったが、食べ物であるのは間違いないだろう。
「温めなおすだけだ、時間は掛からない」
 彼女は手際よく、一つしかない小さな鍋に中身を移し変えて作業に取り掛かる。
 早々に帰ってもらう。その選択肢を言葉にする間は、与えられない。健司は呆
然と彼女の作業を見守るだけだった。

 程なくして、室内に懐かしく、空腹感を煽る香りが漂って来る。もう彼女に帰
ってもらう、そんな選択肢を健司が忘れてしまった時であった。
 どんどん、と彼女の背後で激しい音が響く。誰かが戸を叩いたのだ。
 続いて。
「ケンちゃん、助けてぇ」
 露骨なまでに媚びた声。更に、部屋の主の許可も得ないうちに、勢いよく戸が
開かれた。
「ケンちゃん、えっ、ああ?」
 磨りガラス越しに映る影を健司だと思っていたのだろう。彼女を見た来訪者は、
奇妙な声を発した。
「ああ、驚かせて悪い。今日はちょっと彼女が………あの、夕食を作ってくれる
って……ほら、この間、君も会ったろう」
 来訪者は健司のよく知る女であった。本来この女の前で健司は、作った自分を
演じる。しかし今日に限ってそれが上手く行かず、声が明るく響いてしまったこ
とに、健司自身は気がつかない。
「どうしたの、今日は?」
 聞かなくても女の目的は分かっている。前回訪ねて来た時も、彼女と鉢合わせ
ていたな、と健司は思い出していた。
「それが、お母さん、入院したのはいいんだけど、いろいろ検査したら………」
「浅ましいな、いい加減にしたらどうだ」
 女の言葉を遮ったのは彼女だった。
「なっ………」
 絶句しつつも、女は恐ろしい形相で彼女を睨む。その表情には男である健司も
怯んでしまうが、彼女は全く臆する様子もなく言葉を続けた。
「お前の母親は元気にしているはずだ。それでも話が本当だと言うのなら、入院
先とやらを教えてもらおうか? 電話で確認してやる」
 一瞬、女の顔から血の気が失せる。しかし間を置かず、今度は赤黒く変色して
行く。
「テメェ、フザケンジャネェゾ、ブッコロシテヤル」
 少し前までしなを作り、媚びた声色を出していたのと同じ女とは思い難い。怒
号、というよりその声は獣の咆哮にも似ていた。おそらく、狭いアパート中、い
や付近一帯に響き渡ったのではないだろうか。
 女は拳を握り、その腕を振り上げる。彼女を殴ろうとしているのは明らかだっ
た。
それは彼女にも分かったはずだが、避けようとする気配もない。
「ごめん、彼女、口は悪いけど………その悪気はないんだ」
 このままでは大事になってしまう。そう判断した健司は、二人の間に割って入
った。そのため、狭い入り口から廊下へと女を押し出す形になる。

 まだ慣れていないせいもあるが、彼女を名前で呼ばなかったのは、健司の知る
別の「田嶋優希」を女もまた知っていたからである。
「話は今度、彼女のいないときに聞くから」
 健司は小声で言いながら、左手を顔の前に持って行き、拝むような形を作った。
怒りで歪んでいた女の顔が、少しだけ平静さを取り戻したかに見えた。女にして
みれば金蔓である健司の前で、いつまでも取り乱しているのは得策でないと分か
っているのだろう。
「うん、ごめんなさい………ちょっと興奮しちゃって。そうね、また今度、お願
いするわ………まだ二・三日ぶんのお金なら、なんとかなるし」
 先ほどの話を、彼女に指摘された通り嘘であるとは認めない。それでもすぐに
いつものような、媚びた仕草へと瞬時に戻る姿は見事であった。
「私、帰るね。じゃ、また」
 そう言って背中を向けた女であったか、わずかに肩が震えているのは健司にも
見て取ることが出来た。しかし振り向く一瞬の間に、彼女へと飛ばされた視線に
まで、健司は気づくことがなかった。

 幸福感とは、実にささやかなことで得られるものである。
 騒ぎの後も彼女に動じた様子は全くなかった。あれから五分と経たないうちに、
座卓の上には流れるような手つきで、中身の盛り付けられた食器が並んで行く。
食器は以前、田舎の母親が送ってよこした物だが、実際に使用されるのは初めて
である。コンビニエンスストアーの弁当や惣菜が中心の食生活では、食器類に活
躍の場が与えられる機会などない。
 並べられた品々は、決してご馳走と呼べるほどに豪華なものではなかった。肉
じゃがにポテトサラダ、豆腐とワカメのみそ汁。そして湯気の立つご飯。白菜の
漬け物。今時、スーパーの惣菜コーナーやインスタント食品で入手可能なものば
かりである。
 あるいは要領のいい主婦であれば、購入して来た惣菜を容器だけ移し替え、さ
も自分が作ったかのように振舞うかも知れない。だが一口食してみれば、彼女の
用意した品々が出来合いのものでないことは、すぐに分かる。それは出来合いの
惣菜より、遥かに旨いという訳ではない。いやただ味の良し悪しのみを比較する
なら、出来合いの惣菜の方が上であるかも知れない。彼女の作ったものは、塩、
醤油、砂糖といった調味料のバランスに少々おかしなところがある。それにも関
わらず、健司には幸福感と安心感を与える味であった。
 そう、それは先日のクリームシチュー同様であった。
「作ってから少し、時間が経ったからな」
 その声に健司は顔を上げた。
「口に合わなかったか」
 元々がそうなのだろう。いつも変わらない、不機嫌そうな声。言われて健司は、
自分の箸が止まっていたことに気づく。
「いや、美味しいよ。ちょっと感動しちゃって」
 世辞のつもりはない。
「そうか」
 やはりどこか不機嫌そうなまま、変化のない彼女の表情だったが、健司には安
堵しているように見えた。
 健司は箸を進める。時折彼女へ声を掛けても、返って来るのは「ああ」「そう
か」と短い単語だけだった。しかしそれでよかった。何かとても懐かしい気持ち
だった。
 それは思い出せないほどの昔、失われもう二度と味わうことがないだろうと思
っていた気持ち。もう一人の田嶋優希と共に過ごした時間であった。
 健司は長く長く、心の奥底にあった冷たい塊が溶けて行くのを感じていた。

 失われた時は戻らない。今日まで健司は、失われた時の中を生きようとしてい
た。しかし初めて、未来へ向けて歩を進めてもいいのかも知れない、と思えた。
 食事を終えた後、これもまた全て手際よく片づけを済まし、彼女は帰ってしま
った。終始不機嫌そうな表情に変化はないままだったが、それにもまた、健司は
安らぎを覚える自分に気づく。それはかつて、怒ってばかりの少女に感じていた
ものと似ていた。
 あるいは、と思う。
 彼女との出会いは、少女の導きなのだろうか。
 あの時から歩むことを止めた健司に、もう進んでもいいよと背中を押してくれ
ているのかも知れない。いや、あの子のことだ。こんな所で、何をぼうっとして
いるんだ。さっさと前に進めよ、と怒鳴っているのかも知れない。
 健司は窓を開けて空を見た。
 冷たい夜風が身を刺すようであったが、不思議と心地いい。いつになく、星が
よく見える。この街にも星は出ていたのだと初めて知った。
 今頃もう、彼女は部屋に着いただろうか。送って行こうとした健司だったが、
それは彼女に軽く拒否された。近くとはいえ、夜道を女性一人で帰すのに抵抗を
感じる健司だったが彼女の「子どもではない」の言葉には逆らえなかった。
 彼女は自分をどう思っているのだろう。
 嫌われてはいないと思う。今日で二回、彼女は自分のために食事を作ってくれ
た。ある程度、よい感情を持っていなければ、そんなことをしてくれるはずはな
い。男たちから助けた件の礼だとしても、それなら一度で充分だろう。それとも、
自分が考えている以上に彼女は律儀な性格なのだろうか。
 窓を開けていることすら、もう忘れてしまった。暖まった心は、身体をも暖め
る。
 健司の心には彼女に対する好意が芽生え始めていた。それはまだ一人の女性と
して彼女を「愛する」という所までには及ばない。しかし共に同じ時を重ねて行
けば確実に「愛」に変わっていくであろう感情だった。
 かたん。
 突然の物音に、健司の意識は室内へ戻る。
 風が吹いたようだ。風に飛ばされ、部屋の中で何か落ちたらしい。見れば畳の
上にペンが一本、転がっている。拾おうと手を伸ばした健司は、近くの風呂敷包
みに気がついた。
 先日の弁当箱だ。今日返すはずだったのだが、彼女は何も言わなかったし、健
司も忘れていた。
 今からならば、まだ追いつくだろうか。丁度いい、食後の運動にもなる。
 健司は風呂敷包みを手に、部屋を出た。



 全ては彼女の計画通りに進んでいた。
 所詮、人間など単純な存在である。彼女が軽く背を押してやるだけで、思い通
りの方向へと向かって行く。
 二度ばかり食事を与えたことで、青年は彼女に心を許し始めている。動物を手
懐けるより、簡単であった。お陰で、その心の奥底に在ったものも、朧気ながら
見えて来た。それを心の奥底から、表へとどうやって引きずり出してやるかであ
るが、伏線は既に張ってある。後は役者の登場を待つばかりであったが、これも
彼女の期待が裏切られることはなかった。
「ちょっと、アンタ」
 一人夜道を歩く彼女へと、背後から声が掛かった。
 声の主が何者であるかは、そう仕向けた彼女自身承知しているのだが、一応振
り向き確認をする。
「アンタ、何者なんだよ」
 彼女を威嚇しているつもりなのだろう。腕を組み、大股を開いて仁王立ちする
女がそこにいた。青年の部屋に金の無心に来た女である。
「アタシはね、健司をガキの時から知ってるんだ。アンタみたいないとこがいる
なんて、聞いたことがないんだけどね」
 所謂、ドスを利かせた声を発する女であったが、彼女には臆病な座敷犬が無意
味に吠え立てる姿にも似て滑稽にしか見えなかった。しかしそれを態度に出すこ
とはしない。
「私は田嶋優希だ」
「ふざけんじゃねーよ」
 彼女の答えに、女の平手が飛んで来た。あまりの遅さに、避けずにいるのは困
難であったがそれを堪え、彼女は頬に女の平手を受ける。
 ぱんと、大きな音が響き渡った。大した痛みはなかったが、彼女の足はわずか
によろめく。
「テメェ、うざいんだよ。いいか? 警告だ。今後、健司の周りをうろつくんじ
ゃねぇぞ」
 耳障りな声で女は咆えた。もちろん彼女は恐怖などを感じはしないが、顔に掛
かる女の唾と口臭が気になり、袖で拭う。
「指図される覚えはないが?」
 余程知能程度の低い者でない限り、はっきりと分かるように蔑みを込めた目で
女を見つめた。女を怒らせ、更なる暴力を振るわせるためである。自分が痛めつ
けられることこそが、今の彼女の目的であった。ただどれほど粗暴な性格ではあ
っても、女の力は然したるものではない。
「後悔するよ? アタシにそんな口利いてさ」
 彼女の希望も知らず、女はにぃっと笑った。青年に媚びる顔、怒った顔、そし
て笑った顔、どれを取ってもつくづく不細工な女だと、彼女は思った。
「ねぇ、出てきてよ」
 彼女へ、ではない。女は路地の、外灯の明かりが届かない闇に向けて声を掛け
る。
「はっ、やっと出番か」
 闇から声が返る。それから、己の登場を演出しているつもりなのか、ゆっくり
とした足取りで男が現れる。男の潜んでいたことなど、初めから知っていた彼女
は、そのつまらない段取りに内心辟易としていた。
「平和的に解決しようと思ったんだけどさ、コイツ物分りが悪くて。ヤッちゃっ
てよ」
 そう言いながら女は顎で彼女を指し示す。女の僕らしき男は、これもまたゆっ
くりとした足取りで彼女の元へと進んで来た。
「へえっ。なんだよ、えれぇ可愛い子じゃん」
 湿り気を帯びた息が掛かる距離で、少し鼻の詰まったような声がする。
 さすがにもううんざりして来た。人間の、特に若い男には、知能の低い者しか
いないのだろうか。いま彼女の目の前に立つ男は、以前絡んできた二人組と変わ
らない愚かさを隠すことなく、全身に滲ませていた。世の中に男のような者ばか
りであるなら、わざわざ彼女等悪魔の眷属が手を下さなくとも、人間たちは勝手
に滅んで行くことだろう。
 当然、初対面であったが、彼女は男を知っていた。
 彼女が最初に青年の部屋を訪ねた折、やはり金の無心に来た女を意識だけで追
ったことがある。その際に女を車で待っていた男だ。
「なあ、梨緒。こんな可愛い子、痛めつけるなんて、俺、出来ないぜ」
 その言葉が本心でないのは、何も彼女同様の能力を持っていない者にでも容易
に知れる。
 りお、というのが女の名前らしい。もっとも彼女にとって男も女も、その存在
自体に大した意味はなかった。道具に過ぎない者たちの名前を覚える必要はない。
「不細工な顔を近づけるな。気分が悪くなる」
 愚者の行動は特に読み易い。男に次なる行動を取らせるため、悪意を込めて言
葉を放った。
 単純な人間ほど操作が簡単なものはない。低能という言葉を具現化したかのよ
うな男の顔に、醜さの極限にまで達した笑みが浮かんだ。次の瞬間、彼女は腹部
に鈍い痛みを感じる。アッパーカット気味に繰り出した男の拳が、彼女の胃袋を
捉えたのだった。
 金属的な酸味を帯びた液体が喉を逆流して来る。その勢いは強く、とても口腔
内に留めておけるものではなかった。先刻食したばかり夕飯が、胃液と共に吐き
出された。
「ギッハハハ。何コイツ、ゲロしてやんの! ねぇ」
 前屈みの姿勢になった彼女の耳に、女の汚い笑い声が届く。彼女は更に女たち
を激昂させるための言葉を放とうとするが、必要はなかった。
 屈み込んだ彼女は左側頭部に強い衝撃を受け、吹き飛ばされるように倒れた。
男が回し蹴りをして来たのだ。
「アンタ、口の利き方が成ってないからよ。俺が教育してやるよ」
 倒れた彼女の顔を、男が体重を掛けて踏み付ける。
 もう焚き付けるため、彼女が言葉を使う必要はない。容赦のない男の暴力と、
耳障りな女の嘲笑が続く。
 愚かな連中だ。夜間とはいえ、これほど派手に騒ぎを起こし、誰も出て来ない
ことに全く疑問を持たない。一つ間違えば、警察沙汰になってしまうとは考えが
及ばないのであろう。邪魔が入らないよう、この場が彼女の作り出した結界に守
られていようとは、万に一つも連中に悟られる心配はない。
 もっともここまで愚かしい連中だからこそ、彼女の期待通りに行動してくれる
のだ。ただ一つ、彼女にとって計算外なものがあった。


 痛み、であった。
 右半身は当然のこと、偽りであるはずの左半身へ受けた暴行にさえ、彼女は痛
みを感じる。加減を知らない男の暴力行為は、相当の痛みを彼女に与えた。普通
の人間であれば失神、最悪の場合死に至っても不思議ではない。
 しかし人間ではない彼女が、失神することはない。
 死に至ることもない。
 苦痛に耐え、ひたすら男の暴行を受け続けるだけだった。



 遠くから微かに、焼き芋屋の売り声が聞こえて来る。
 ただそれだけのことに、健司は誰も居ない夜の街に、人の生活を感じた。
 右横の明かりの消えた家。旅行中なのだろうか。あるいは何か特別なことがあ
って、家族揃って外食をしているのかも知れない。
 斜め前の家からは、テレビの音が聞こえて来る。時折、子どもの笑い声がした。
きっと夕飯を済ませ、家族で団欒のひと時を過ごしているのだろう。
 見えない家々の中の事情を想像して歩くのが楽しい。時折吹き抜ける夜風さえ、
まだ少し遠い春の薫りを感じてしまう。それは健司にとって初めての経験だった。
 小走りする腕の中で、弁当箱がかたかたと音を立てた。それがまるで、何かの
リズムを刻むかのように聞こえ、健司は知らず知らずのうち、口笛を奏でていた。
「やっぱり追いつけなかったな」
 彼女のアパートまであと二・三十メートルと言ったところまで来てしまった。
確か玄関の所に各部屋に繋がるインターフォンがあったはずだ。手間を取らせる
のは気が引けるが呼び出して、外まで出て来てもらおう。ああ、そう言えば彼女
の部屋の番号を知らなかった。ネームプレイトに書き込まれていればいいのだが。
 そんなことを考えていた健司だったが、ふと何か気配を感じて立ち止まった。
「……ぅ…」
 微かな声がした。犬か猫でもいるのだろうか。健司は周囲を見回した。
「うっ………」
 今度ははっきり、人の声だと分かった。それも女性のものである。脇の路地か
らだった。
 健司の全身に緊張感が走る。暗がりの中、何か壁にもたれ掛かったものが見え
た。それが呻き声の主であると気づくまで、さほどの時間は要さない。
 事件か事故か、あるいは急な病の発作であろうか。
 わずかに恐怖を感じたものの、躊躇している場合ではない。健司は意を決し、
影の下へと走り寄った。
「………っ」
 声にならない声を発したのは、健司の方だった。影の正体を視認して、愕然と
なる。
「ふふっ………無様なところを見られてしまったな」
 健司に気づき、力なく笑う姿があまりにも痛々しい。そこに居たのは、田嶋優
希であった。いや、実際には健司がその人物が彼女であると確認するまで、少々
時間を取っていた。
 おそらく、彼女の親兄弟であっても即座に見抜くには困難を極めたに違いない。
彼女の顔立ちは健司の感情を抜きにしても、かなりの美形と言える。しかしその
面影は微塵もない。彼女の顔面は、元の二倍近くにまで腫れ上がっていた。
「ちょっと待って、いま、救急車を呼ぶから」


 携帯電話を持たないことが悔やまれる。
 この辺りに公衆電話はあっただろうか。いや、公衆電話を探すより、近くの家
の者に頼み、一一九番通報して貰う方が早い。
 だが健司は動かなかった。動けなかったと言うのが正しいだろう。
 電話を探すため、一旦その場を離れようとした健司だったが、足を掴む手によ
って、その動きは止められてしまう。
「……頼む。騒ぎには………したくない」
 ズボンの裾を掴む手と同様に力ない声が懇願した。

「迷惑を掛けた」
 ベッドに腰掛けた彼女が言ったのは、健司が救急箱の蓋を開いたのと同時だっ
た。
 初めて一人暮らしの女性の部屋へ上がる。本来なら多少なりとも緊張する場面
を健司は意外な形で迎えることとなった。
 救急車を呼ぶことばかりか、医者に掛かるのさえ彼女は強く拒んだ。仕方なく
健司は彼女の望むまま、肩を貸して部屋へと運び込こんだのだった。
 しかし困ったことに彼女の部屋には救急箱どころか、薬一つ、絆創膏一枚すら
ない。あるいは管理人室で借りられるかも知れない。だが彼女は怪我を人に知ら
れたくない事情があるらしい。仕方なく健司は一度自分のアパートに戻り、救急
箱を持って再びこの部屋を訪れたのだった。
 健司は救急箱より膏薬を取り出す。効能書きの「打ち身」の文字を確認して封
を開ける。が、いざそれを貼ろうと彼女の顔を見て動きを止めた。部屋の照明の
下で改めて見ると、脹れは当初考えた以上に酷い。
「これ、そこのコンビニで買っておいたんだ。しばらくこれで顔を冷やした方が
いいと思う」
 健司は保冷剤をタオルに包み、彼女へ手渡した。
「すまない」
 彼女が返す言葉はいつも通り無愛想なものだった。特に苦痛に顔を歪めたりは
しない。しかし健司には、いつになく彼女が弱々しく感じられた。


「あの、それから、身体のほう………服の下とかの傷はどうしょう」
 顔の腫れだけとは思えない。おそらく全身に何かしら傷を負っているはず。
「すまないが、見てもらえるか」
 言うや否や彼女は服を脱ぎ出した。
 戸惑い、健司は顔を背けようとしたが出来なかった。まるで何かの呪術にでも
掛けられたかの如く、健司の視線は彼女の裸身へと釘付けになる。ただしそれは
通常の男性が若い女性の裸体に対して持つ関心からではない。その痛ましさ故で
ある。
 若い女性の顔が腫れ上がる。それだけでも充分に痛ましい。
 しかし服の下に隠れていた身体には、まるで腫れた顔とのバランスを取るかの
ように無数の傷痕が刻まれていた。
 そこからしばらくの時間、言葉は消えた。
 健司も、そして彼女も。
 健司は無言で傷の手当てをする。これだけの傷を果たしてどれほど適切に処置
出来るか自信はなかった。それでも可能な限りのことはする。打ち身は打ち身の。
擦り傷には擦り傷の処置を施す。
 これだけの傷だ。痛みも相当なものがあるはず。薬を付けるのにもさぞかし、
沁みることであろう。何箇所か骨折していたとしても不思議はない。
 それでも彼女は声を出さない。
 眉ひとつ、動かすことはない。

 彼女は何者かに暴行を受けた。そう考えて間違いないだろう。
 全身の傷は、たとえば転んだくらいで出来るものではない。数が多すぎる。車
による事故とも思えない。何者かが連続的に、殴ったり蹴ったりという行為を繰
り返した結果と見ていいだろう。
 彼女への処置を続けながら、健司の心に黒い感情が頭をもたげつつあった。そ
れは一旦、封印され掛かった感情である。
 出会ってまだ日の浅い彼女の人間関係を、健司は知らない。しかし彼女へ悪意
を持っている可能性がある人物については、一人心当たりがあった。
 その見当が外れていないのならば、全ては自分に責任がある。
 あいつは、こんな真似を平気で出来る人間だ。それは分かっていたはず。それ
なのに自分は浮かれた心で、それを忘れていた。もっと注意深く振舞っていたな
ら、彼女がこのような仕打ちを受けずに済んだのだ。
 己を責める気持ちは、黒い感情の逆流に拍車を掛ける。心は決まった。




元文書 #275 白き翼を持つ悪魔【04】            悠木 歩
 続き #277 白き翼を持つ悪魔【06】            悠木 歩
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