#62/598 ●長編
★タイトル (AZA ) 02/03/30 03:06 (446)
そばにいるだけで 59−6 寺嶋公香
★内容 16/07/28 03:54 修正 第3版
「え?」
相羽は津野嶋の背後から、その腰に両腕を回した。左右の指先をきつくロッ
クし、三度、投げにかかる。
津野嶋の片足が、マットから離れた矢先……津野嶋は両手を使って、相羽の
ロックを解除。左腕を取ると自ら飛ぶ。
両者、マットに倒れる。
相羽の左側に位置する津野嶋が、腕ひしぎ十字固めに行った。
「これが津野嶋の狙いか」
歯ぎしりをしたのは、望月だったろう。
純子はそれでも、相羽の勝利を疑わない。力一杯、声援を送る。考えた行為
ではなく、身体が反応する。
「立てーっ!」
相羽は立った。いや、上体を起こした。肘を伸ばされないよう、津野嶋に被
さる風にして身体を預けていく。津野嶋も必死に足に力を込め、相羽を改めて
押し倒さんとする。
そのとき、相羽は右手を津野嶋の顔へ近付けた。何をする気か?
「おお?」
相羽の右手が、津野嶋の口を捉える。親指とその他の四指とで、両頬から挟
み込む形だ。
「アイアン、いや、マウスクロー?」
津野嶋の表情が、苦痛で歪む。呼吸もしづらくなっているはず。ほどなくし
て、マウスピースを吐き出した。なおもこらえるが、とうとう相羽の左手首を
絞り上げる両手の内、右だけを放し、自分の口を鷲掴みにする新種の生物のよ
うな手の平を外しに掛かった。
相羽はこの防御行動を予想していたのか、スムーズな、自然な流れで次の手
を打つ。やけにあっさりと右手を津野嶋の口から離れさせると、そのまま枕を
してやるかのように後頭部へ回す。同時に、左手を強引に振って津野嶋のもう
片方の手を払うと、敵の右脇の下へ自身の右側頭部が来るように、頭から押し
込んでいく。加えて、膝を使い、津野嶋の股を乗り越え、相手の右横に陣取る。
「これって、けさ固め、いや、肩固めの体勢じゃないか……」
仰向けの津野嶋に、相羽は右横から抱きつくようにして、肩を押し当ててい
った。時間が経過する。残り時間は?
「あと三十秒です!」
どちらかのセコンドが叫んだ。
頭の方向に伸ばされた津野嶋の右手が、宙を掻く。それが二、三度繰り返さ
れ、突然、ぱたりと崩れ落ちてマットに着いた。生花が瞬時にして枯れた、そ
んなイメージを抱かせる動きで……。
「それまで! それまでだ!」
主審が割って入る。相羽は技を解き、正座の格好で座り込んだまま、暫時、
相手を見下ろした。セコンドや副審が飛び込んできて、落ちた津野嶋を介抱し
始めた。
天井を仰ぐ。主審により、相羽の右腕が高く上げられる。
――決着――。
相羽の勝利に、拍手が長く贈られた。
「…………」
純子も、感覚が分からなくなるほど強く、そして長い間、手を叩き続けた。
純子は畳の上で、足をずらして横に少し伸ばした。
「要するに」
お好み焼きのへらを振り、熱弁をふるうのは望月。彼の正面には純子。相羽
は純子の隣で、海老玉が焼き上がるのをじっと見つめている。
「津野嶋がパンチを空振りしたのはわざとで、無防備にも相羽に背中を向けた
のもわざと。誘っていたんだ」
「それがさっき言ってた、相羽君に後ろから組ませるために?」
「そうそう」
望月が首を縦に振ると、へらも小刻みに動く。
「バックを取らせた津野嶋は、相羽が投げに来ることを読んでいた。それまで、
こいつは投げ技を連発していたからな」
「連発ってほどじゃない。二度、出しただけ」
ぼそりと答え、へらの角で生地をつつき、固まり具合を計る相羽。
「回数は関係ねえよ。投げ技にペースを狂わされていた津野嶋が、それならば
と逆手に取ろうとしたのは確かだ。で、相羽が後ろから投げに行った瞬間、津
野嶋は相羽の手のロックをこじ開けて、空中で肘か手首を極めようとするわけ
だ。事実、津野嶋の作戦はうまく行ったかに見えた。ところが、こいつは」
へらで差し示され、肩をすくめた相羽。「焦げ付かない内にひっくり返せよ
な」と望月の手前の鉄板を指で差し返す。
望月はへら二つを両手に持って、ミックス焼きを景気よくひっくり返した。
その間も解説は止まらない。
「津野嶋の腕狙いを読んでいたのかどうか知らないが、冷静に対処しやがった。
腕ひしぎをくらいそうになっても完全には極めさせず、身体を起こして反撃に
転じた。あとは見た通り」
「ふうん。やっと分かった」
純子はねぎ焼きを裏返すと、形を整えに掛かる。箸で、こぼれ出たねぎを戻
したとき、望月から追加解説があった。
「あっ、でも、あの口にクローを掛けたのも、意表を突いたいい手だな、うん」
「苦労を掛けたって?」
首を傾げる。と、水を飲もうとしていた相羽が、急にせき込んだ。水が少々
飛び散って、テーブルの片隅を濡らす。
「相羽君、だ、大丈夫?」
「ん、平気」
おしぼりを使って水を拭き取る相羽に、純子は重ねて聞く。
「私、そんなにおかしいこと言った?」
「いやまあ、滅茶苦茶面白いというわけではないけれど……意表を突かれまし
た。望月、説明してあげてよ」
相羽の視線につられて、純子も望月を見る。彼もまた、肘を突いた右手首に
額を当て、くっくっくっと肩を揺らしていた。
「俺には滅茶苦茶面白かったぞ。苦労とクローか。わはは、いかんいかん、ま
だ笑えちまうよ」
楽しさに眼を細める望月に、説明をせがんで、純子はようやく理解できた。
何でも、プロレスの技に両方のこめかみを片手で鷲掴みにするアイアンクロー
というのがあって、そのクローを“苦労”だと思った純子の勘違いが大いに受
けた、ただそれだけ。
「笑ったわけは分かったけど」
男子二人の笑いが収まる頃には、お好み焼きも焼き上がった。食べながら、
同じ話題が続く。
「口にクローを掛けるのって、そんなに珍しいの? 痛そうではあるけど……」
「そりゃもちろん」
答えるのは、専ら望月の役目。相羽は試合疲れの上に、お腹が空いているの
か、黙々とお好み焼きを口へと運ぶ。
「普通、クローと言えばこめかみか腹なんだ。そもそも、クロー技なんて、格
闘技の試合にはないんだよ」
うなずきかけた純子だが、ふと違和感を覚える。頭の中で、クエスチョンマ
ークが三つほど生まれ、輪を作って回り始めた。
「プロレスは格闘技じゃない?」
疑問を口にすると、望月は困ったように眉を下げた。相羽と顔を見合わせて
から、何やらアイコンタクトらしきものが交わされ、結局、
「あー、その話は長くなるので割愛!」
と打ち切ってしまった。
「どうしても知りたければ、時間があるとき、相羽に聞く。いいよな?」
「ふうん。分かったわ、そうする」
相羽の横顔を見つめると、やはり、この場では教えてくれそうになかった。
「ところで相羽、いつの間にあんなパワーを身に着けたんだ? 道場ではそん
な素振り、一つも見せていなかった」
「……驚かそうと思っていたからね」
相羽は顔を上げずに、またもぼそっと答えた。冗談とも本気ともつかぬ口ぶ
り。いつものことだ。
「秘密でウェイトトレーニングでもやったのか? 津野嶋との差し合いを制し
て、引っこ抜いて投げるとは、並の力では無理だ」
「ダンベルだのバーベルだのを使ってのウェイトトレーニングは、全然やって
ないよ。腕立て伏せなら、やったけど」
「腕立て伏せだけで、あんな力が出せるようになるかよ。ちょっと服を脱いで
みろ、筋肉の付き方を見てやる」
「ここで? 遠慮するよ」
受け流す相羽の横で、純子は少しばかり気恥ずかしい。相羽が筋肉もりもり
になっているところを想像してしまったのだ。
(でも、そんな風には見えない)
うつむいたまま、ねぎ焼きの残りを小皿に移す動作に紛らわせつつ、隣の相
羽を見やる。
(腕は多少たくましくなった気がするけれど、太くなったと呼べるほどじゃな
い。他はほとんど変わってないわ)
「どうやって筋力トレーニングしたのか、教えてくれよ」
望月が、鉄板から立ち昇る熱にも負けず、身を乗り出した。相羽は食べさし
の欠片を飲み込んで口の中を空っぽにすると、淡々と答えた。
「できれば勘弁してほしい。これを知って望月が今以上に力を付けたら、僕が
困ることになるもんな」
「素直な反応でよろしい。でも、気に入らないぞ」
「どっちなんだ」
「相羽はもうやめるんだろ? だったら、俺が強くなったとしても関係ないじ
ゃないか」
「大会出場を目指さなくなるだけで、道場をやめるとは言ってない」
「同じことだ。ほぼ同じ」
熱気を我慢できなくなったか、首を引っ込める望月。お冷やを呷って、それ
でも足りず、セルフサービスで銀色のポットからお代わりを注いだ。
「しょうがない。涼原さんから相羽に聞いてやってよ。そしたらこいつ、間違
いなく答えるから」
「はい?」
絶句してから、ゆっくりと相羽の方を向く純子。相羽は最後の一切れまで平
らげ、メニューを手に取っている。まだお腹一杯にならないようだ。
「焼きそば……オムそば……。このオムレツ、白身だけで作ってくれないだろ
うな。しょうがないから、そば飯でも」
わざとらしく独り言を繰り広げて、挙手する。注文を終えてからも、純子の
視線がぴったり張り付いているのに気付いてか、相羽はようやく口を開いた。
「純子ちゃんは、特に知りたくもないだろ」
「ううん、知りたい」
相羽はため息をついた。
ちょうど折よく、そば飯が大きな皿に盛られて届く。望月がついでとばかり、
「牛一つ追加」と店員に頼んだ。店員はすぐさま引き返し、カップに入ったお
好み焼きのタネを持って来た。
「以上で?」
「ええーっと、涼原さんは?」
望月に促され、純子は気になっていた品を注文することにした。「胡桃入り
杏仁豆腐を一つ、お願いします」
「聞く気ある?」
店員が去った合間に相羽は片肘を突き、呆れた風に言った。
「あるある」
「それなら、ちゃんと聞く態度でいてほしいんだけど」
さっきとは別の店員――女性店員が、ガラスの小鉢に盛った中華デザートを
運んできた。ようやく落ち着く。
「聞きます、聞きます。相羽先生」
おどけた調子で応じ、あぐらから正座へと座り直してみせる望月。相羽はも
う一度、ため息をついた。
「秘密にするつもりは最初からなかったから言うけれど、本当に大したことじ
ゃないんだぜ。ロッククライミングの模擬体験をしたんだ」
「ロッククライミング?」
望月と純子の声が揃った。引き続いて望月が聞く。
「って、岩登りのことだったか? 岩にしがみついて登っていくのを、テレビ
で見た覚えがある」
「そう。スポーツセンターに新しく設備が完成したのを聞いて、体力作りにい
いんじゃないかって直感したから、行ってみた。かなりよかったよ」
これでとりあえず義務を果たしたとばかり、相羽はそば飯に手を着ける。匙
ですくった分を小皿に取った。
「そういえばそのオープンの話、チラシで眼にした覚えがある。思い出した。
造り物の岸壁があるんだろう? スイッチ一つで角度を変えられるっていう風
な宣伝文句が書いてあった」
「スイッチ一つは大げさだけどね。手がかり足がかりになる突起物の配置も換
えられて、ダイヤルで微調整するんだってさ」
「ふむ。いや、設備の解説よりも、それで効果あったのか? ああ、あったん
だよなあ、現実に筋力アップしたんだから」
一人で勝手に納得し、望月は新しくお好み焼きのタネを鉄板に広げて焼き始
めた。湯気が立ち昇る中、相羽は純子へ振り返る。微笑しながら言った。
「ロッククライミングをやっているとき、林間学校のことを思い出してたよ」
「……中学生の、あの?」
記憶の一つを呼び起こし、うろたえつつも聞き返した純子に、相羽がうなず
いた。
「な、何であんなことを思い出す……」
「だって、思い出したら力が出るんだもん」
相羽の子供ぶった口ぶりに、がっくりとこうべを垂れる純子。そんな様子に
気付いたのかどうか、望月はまだ格闘技談義を続けた。大発見をしたみたいに、
トーンを一段高くして声を張り上げる。
「そうか、分かったぞ。腕力以上に握力が付いたんだな! 道理でクロー、効
くはずだ、うん」
「それはあくまで結果。最初からクローを狙ってたんじゃない」
「じゃあ、なおさら凄いぜ。最初から考えてたんじゃないとしたら、試合中に
とっさに思い付いたことになる。あの状況でクローを口に掛けるなんて、普通
ならできないよな」
「普通じゃないってか」
自らを指差しながら、頬にかすかなしわを作る相羽。そんな様を見届けた純
子は、林間学校の思い出による恥ずかしさをやっと振り払った。
(そっか。相羽君、スポーツセンターでロッククライミングの練習をしていた
のか。やっぱり、真面目に取り組んでたんだ)
よかった……という思いが、改めて濃くなる。
そして、この分なら、あのことを今聞いてもいいよね、と考えた。
「相羽君、一つだけ教えてほしいの。スポーツセンターでのこと」
箸を置くと黙ったままうなずき、水を飲んだ相羽。望月は何の話が始まるの
か察した様子で、幾分距離を取るような仕種を見せた。
「スポーツセンターで……遠野さんと会わなかった?」
遠回しに聞いても仕方がない。真っ直ぐに見つめた。
「会ったよ。一回きりだけど。どうして知ってるの?」
何でもないことのように認め、そして、純子が知っていることに驚きを表す
相羽。彼は重ねて推測を述べた。
「あっ、純子ちゃんも遠野さんと会ったのか」
「ううん。そうじゃなくて。ごめんなさい、見てたの」
「見てたって、純子ちゃん、スポーツセンターまで来た?」
「そう。どんな練習をしているのか気になったから、内緒で見に行って、その
とき、たまたま見掛けたの。遠野さんと相羽君が並んで歩いているところを」
信じている。でも、いよいよ核心に入るとなると、まだ緊張した。
「二人を見てたら、声を掛けられなくて、そのまま帰って来ちゃった」
「……もしかして、遠野さんが泣いたところも見た?」
「うん」
だからこそ声を掛けられずに、ショックを受けてその場を離れたのだ――と、
ここまで説明することはならないが、きっと相羽は感じ取ってくれたはず。純
子が言葉を待っていると、相羽は参ったなという具合に片手をうなじにやり、
「不安にさせてごめん」
と、軽く頭を下げた。そして純子を真っ直ぐに見つめ返しながら続ける。
「遠野さん、コンタクトレンズをするようになったんだってさ」
「え?」
「まだ慣れてなくて、あのときもコンタクトがずれて、痛さで涙が止まらなく
なって。焦ったよ。それをまさか見られていたなんて」
「そ、そうだったんだ……」
ほっとするよりも先に、唖然としてしまった。こんなことで思い悩んでいた
なんて、ばかみたい。
ふっと、視線に気付き、望月を見やると、笑いをこらえて身体を丸める様が
分かった。肩が揺れている。
純子は取り繕うように、おまけの問い掛けを相羽にした。
「で、でもさ、遠野さんがスポーツセンターにいたのは何故? 中学までのイ
メージだと、遠野さんて運動が好きなタイプじゃなかったけど、何かするよう
になったのかな?」
「――あーっ、そうだ!」
表情を明るくした相羽が、大きな声で言うと同時に、手を打った。
「早く言おうと思ってたんだ。きっかけがなくて黙ってたけど。遠野さんは付
き添いみたいな形で来てただけさ」
「付き添い? 誰の」
「君の知ってる人だよ」
「私も知ってる……。つまり、中学で一緒だった人なのね」
「うん。さあ、誰でしょう?」
望月から、「おまえはクイズ番組の司会者か」と突っ込みが入った。相羽は、
「これはパーソナル問題なので、望月さんには答える権利がありません」と切
り返す。
「誰って言われても、たくさんいるわ。遠野さんと親しかった女子の内、特に
仲のよかった――」
純子の台詞を、相羽が遮る。
「その思考経路では絶対に当たらない」
「絶対に当たらないって、そんな。名前を順番に挙げていけば、いつか当たる
はずよ」
「無理です。何故なら」
気を持たせる相羽。純子はこてを手に取り、不満を鮮明にした。
「何故なら、遠野さんが付き添ったのは男子だから」
「えっ! じゃあ、もしかすると、遠野さんの恋人……?」
「そこまでは聞かなかった。とにかく趣味が合ったと言ってたよ」
「遠野さんの趣味」
思い出し、考える。真っ先に浮かんだのは、中学のとき、遠野が漫画研究会
に入っていたこと。
(漫画が好きな人って、男女問わずにたくさんいるわ。好きな漫画のタイプが
似てるってことかしら)
「別に、当ててくださいとは言ってないんだけど」
相羽が苦笑を浮かべ、匙を口に運ぶ。純子は首を傾げた。
「だって、クイズみたいなこと言ったじゃない」
「ああ、そうか。うーん、試合の疲れで、頭にもやが掛かってる」
そう言って、頭を押さえるものだから、純子は不安をかき立てられた。
「大丈夫? 無理して付き合わないで、休んだ方が」
「冗談だよ」
相羽がすぐに応じた。前に座る望月もうなずき、太鼓判を押した。
「そうだよな。それだけ食べられるんだったら、何ともないはずだ。口の中な
んか、傷はほとんどないだろ?」
「もちろん。でなきゃ、こんな平気な顔をして食べられない」
「それより、相手は誰?」
純子は安心できたことでもあるし、男子二人のやり取りを遮って、話題を引
き戻した。
相羽は顎に手をやり、首を傾げる芝居気を見せた。
「これを言うと一発で分かるだろうな……大ヒント、絵の得意な奴だよ」
「絵……えっ、あっ、長瀬君ね!」
「正解」
ぱちぱちと短く手を叩き、食べ物の片づけに取り掛かろうとする相羽。純子
は彼の手を引き、食事を中断させた。
「ねえ、長瀬君の付き添いで遠野さんが来てたことは分かったけれど、どうし
て長瀬君がスポーツセンターに」
「続きは帰り道で話すよ」
言って、相羽は望月の方を一瞥する。望月の知らない人のことを長々と話題
にするのはよくない、という意味なのだろうと純子は理解した。
「分かったわ」
素直に返答した純子を見ながら、望月が「いいねえ」とつぶやく。
「さすがの俺も、二人の仲のよさを見せつけられると、彼女がほしくなりそう」
うつむいた純子の隣で、相羽は飄々と聞き返した。
「あれ? いなかったっけ」
「知ってて言ってるだろ、おまえワ」
語尾にアクセントを置いて返すと、望月は拳骨を作って、そこへ息をはきか
けるポーズ。でも、怒った表情はすぐに緩んだ。
「幸せそうな顔しやがって」
「当然。幸せだからな」
聞いてて恥ずかしくなる。もちろん嬉しさが上回るのだが、でも恥ずかしい。
ぽんぽんと答える相羽の袖を引っ張った。
「そ、そろそろ、帰りましょ」
マフラーを忘れぬよう手に取り、立ち上がりかける。そこへ指摘が。
「うん? 杏仁豆腐、残っているけど」
相羽の目線の先に、ほとんど手つかずでぽつんと取り残されたデザート一つ。
純子と相羽は夕方の電車に揺られ、混雑の中、しばらく窓の外を眺めていた。
気を利かせたのでもあるまいが、望月は早々に純子達とは別ルートを採った。
二人だけになったのだから、お喋りの続きをしてもいいものだが、やはり雰囲
気が似つかわしくない。他人の耳や目があるところでは、話すのを躊躇してし
まう。多分、純子と相羽に共通する気持ちだった。
自宅への最寄り駅に着き、他の客数人とともに降りると、やっと人心地つけ
た。車内のエアコンで暖まりすぎた身体を、冬の空気が程良く冷やしてくれる。
「電車の中で、何か考えてた?」
純子が聞くと、相羽はうなずいた。
「試合を振り返ってたとか?」
「試合はすんだこと。今、頭の中はピアノが大きくなってる」
「そっか。もうこれで、ピアノに集中できるね」
「ああ」
相羽の返事が少し気のないものになった。どうやら、遠野と長瀬の話をすま
せたいらしいと当たりを付け、純子は前置きを抜きにして改めて尋ねた。
「スポーツセンターに長瀬君が行ってた理由、相羽君は聞いたの? 差し支え
なかったら教えてほしい」
「差し支えはないよ。長瀬本人も、深刻にならない程度なら話していいって言
ってたしね」
「深刻ってどういうこと」
意味を飲み込めず、次いで嫌な予感を抱いた。そのせいかどうか、急に寒さ
を覚え、マフラーを首に巻く。
純子の心配げな表情を早く消そうと、相羽は答えた。
「順番に話すから、慌てないで。試合のためにスポーツセンターでのトレーニ
ングに出向くようになって、しばらくして長瀬と顔を合わせてね。お互い、何
でこんなところにいるんだという話になって……長瀬の場合、大げさに言うと
膝のリハビリが目的だった」
「長瀬君が膝を傷めたのは前に聞いたけれど、そんなにひどいものだなんて」
「夏休みにやったそうだよ。僕は知らなかったけど、長瀬の高校は陸上の強い
ところらしいね。スポーツ推薦で入った生徒も多くて、最初は長瀬も陸上部に
入らずにいた。膝の故障が頭にあって、気後れしたんだってさ。でも、学校に
慣れて、膝の調子もかなりいいから、挑戦する気になった。入ってみたら、や
はり同じ一年でも凄い奴がいて、取り残されないように無理をした結果、大き
な怪我をしちまったって、笑いながら言っていた」
「……」
「残りの夏休みを治療に当てるようになったある日、病院からの帰りに、バス
停のベンチにへたり込んでいる遠野さんを見掛けた。気になって声を掛けたら、
車酔いと分かって、元気になるまでそばにいてあげたんだってさ。そのとき、
絵や漫画や絵の話で気が合って」
「ふうん。じゃあ、それがきっかけで?」
相羽がうなずく。
「きっかけには違いないんだろうけどね。長瀬が言うには、このときはそれっ
きりで終わったそうだよ。十二月、試験が終わって暇なときに偶然、買い物帰
りの遠野さんとまた会って。前が見えないんじゃないかっていうくらい大きな
買い物袋を抱えていたのを手伝ったら、随分感謝されて、それからたまに会う
ようになったと」
純子は、遠野と長瀬の出逢いの場面を思い描き、何かいいな、と感じ取った。
多分、最初はぎこちなかった空気が、段々と打ち解けて……。
「今では、長瀬君のリハビリトレーニングに着いて行くぐらい、親しくなって
いるのね。いい関係なのかなぁ」
「だから、そこまでは聞いてないって。遠野さんが長瀬に着いて来ていたのを、
君が見てたあの日、初めて知ったんだ。今話したいきさつも、そのときに聞い
たんだよ」
「一つ、分からないんだけど。私が見ていたとき、どうして長瀬君はいなかっ
たの? 一緒に帰ればいいのに」
「長瀬が月に一度の定期診断を受ける日だったんだ。遠野さんに病院まで付き
合わせたら遠回りになるからってことで、送ってやってくれと長瀬に頼まれた」
「うふふ。優しいというか、お人好しというか」
「当たり前のことをしただけ」
「でも、試合が近かったのに。ひょっとして、遠野さんに気があったりして?」
純子はわざと意地悪な言い方をしたのだが、相羽には動じる気配は微塵もな
く、きっぱりとした答えが返って来た。
「ない。友達だからね、遠野さんも長瀬も」
「うん。分かってる」
純子は顎を引いてマフラーにうずめ、斜め前方を見つめた。アスファルトに
外灯のスポットライトが落ち、薄明るい白の円ができている。あまりゆっくり
していると、すぐに夜の帳がやってくる。
「でもね……本当のことを言うと、ちょっとだけ、心配だった。遠野さんは卒
業式の日に、あなたに気持ちを打ち明けていたし。それに、相羽君はみんなに
優しいから、そのつもりがなくても、女の子を期待させてしまうかもしれない」
「性格はなかなか変えられないけれど」
相羽はそう言うと、横顔を見つめてきた。気付いて振り向く純子。
「――君がそんな顔をするのなら、他の女の子に期待を持たせるようなことは
やめる。不安にさせたくない」
純子は頬に火照りを覚えた。顔全体どころか、耳やうなじまで朱が差したか
もしれない。マフラーを引っ張り上げて、覆い隠したい。
だけど、時刻は暗さを増しつつある夕方。隠さずとも、明瞭に見えはしまい。
逆に純子はマフラーの縁に指を掛け、下へとずらす。
「そんな。いい。相羽君は相羽君のままで。私の方こそ、疑っちゃって、ごめ
んなさい」
「謝る必要なんて」
「いいの。これからはずっと相羽君を信じる。信じられる」
自らに言い聞かせる言葉。純子は満面の笑みに顔をほころばせた。
これには相羽の目元も緩む。ところが次の瞬間、困った様子で眉間にちょっ
としわを寄せた。
「……それは嬉しいけれど」
「ん? けれどって?」
「逆の立場になった場合を想像したら、自信ないな。何しろ、君の周りは格好
いいタレントだらけだから、噂が立つだけで冷や冷やする」
純子は否定しようとした。そんなことない、相羽君だけよ、と。
でも、そうする前に、相羽の口から次の台詞が聞かれ、冗談だと分かった。
「たとえば、香村とかさ」
「――もう!」
手を大きく振りかぶって、相羽の肩を叩く。相羽は笑って受け流した。しか
し、純子にとっては極短い間とは言え、信じてもらえないの?と思わされただ
けに、心の水面にさざ波が立った。
同時に、これは罰だとも思う。遠野の件で、相羽を一点の曇りもなく信じ切
れなかった自分への、小さな罰。
正直な気持ちを言っておこう。そうしなければいけない気がした。
「あり得ないことを考えて時間を潰すのは、ばからしいわ」
軽い口調で始めた純子は、相羽の前に回り込んだ。向き合う位置関係で、二
人とも立ち止まる。相羽の戸惑ったような、それでいて何か期待するような表
情が窺えた。
うつむいていた純子は胸元で手を絡め合わせ、やがて顔を起こす。
「さっき、信じるって言ったのに、また不安になるかもしれない。些細なこと
でも嫉妬してしまいそう。だって、あなたが好きだから」
距離を詰める。自然と腕の中へ飛び込む形になった。相羽の表情がどんな変
化表情を見せたのかは分からない。額を彼の胸に当て、純子は続けた。
「相羽君が私を好きなのと同じように、私は相羽君を好き」
「――」
相羽の手から、バッグが道へ下ろされる。
両手は一旦握りしめられ、また開いてから、上へ。
純子の肩から背中に掛けて、ためらいがちに回される腕。力がそっと込めら
れた。
「僕は君を愛し続ける」
相羽の囁く息が、純子の耳にかかる。
「君に不安を感じるいとまを与えやしない」
雪のようにふうわりと降りてくる。
「好きだ、純子ちゃん」
あったかい。
* *
――『そばにいるだけで 59』おわり
※参考
・二〇〇二年一月オフでの某氏の話
・格闘技をやっている友人Yの話
※参考にならず
・高野連のHP(規約に関する文書データをうまく表示できず、断念。(^^;)