AWC そばにいるだけで 58−4   寺嶋公香


        
#55/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  02/01/26  23:25  (500)
そばにいるだけで 58−4   寺嶋公香
★内容

 駅に着くと、いつも通り、淡島と結城の二人とはここで分かれて、それぞれ
列車に乗り込む。新学期初日、学校が若干早めに終わった。この時間帯、車輌
内は空いている。おかげで横並びに三人、楽に座れる。端から順番に、純子、
相羽、唐沢と。
「さっきの産休で思い出したけれど」
 純子がつぶやくように切り出すと、相羽も唐沢も顔を向けた。
「小菅先生もそろそろ……みたい。年賀状にさらっと書かれてたの」
「小菅先生かあ、なーつかしい」
 唐沢が即応した。そこへ相羽がため息混じりに言葉を挟む。
「懐かしいっていうほど時間は経ってないと思うが」
「いいじゃん、俺の感想なんだから。恋人となら三日と会えないだけで、懐か
しいどころか寂しくなるもんだ」
「ふむ」
 相羽は短く返事して、引き下がる。唐沢は機嫌よく、続きを話し始めた。
「結婚してもうすぐ一年だもんな、小菅先生。えっと」
 そして大げさに指を折って数えてから、
「ふつーに考えれば、一月から二月にかけてか」
 と、にやにやする。こういう話題でこういう表情をしても、唐沢の場合、あ
まり嫌らしくならない。キャラクターというものだろう。
 一方、相羽は静かなまま。普段から真面目なイメージが強いとは言え、彼も
また唐沢のキャラクターと共通する部分はある。なのに、口を閉ざしているの
は、純子がいるからだろうか。
「生まれたらお祝いに行って、赤ん坊を見せてもらうついでに冷やかそうぜ」
「冷やかしはしないけれど、私もそのつもり。小菅先生から連絡をもらえるこ
とになってるから、みんなで行かない?」
 純子は賛意を示してから、二人を誘った。「いいね」と、今度は相羽が間髪
入れずに応じる。
「迷惑にならないのなら、ぜひ行きたい」
「俺も。押し掛けるからには、出産祝いを持って行かなくちゃな」
「そこなのよね。何がいいかしら」
「今から悩まなくても、みんなで相談して、買いに行けばいいんじゃないかな」
 相羽の提案に純子も唐沢も乗った。びっくりさせたいから、小菅先生に対す
る窓口は純子に一本化しておこうということまで決まる。
 出産話が一段落すると、唐沢が相羽に問いを投げかけた。
「ところで相羽は部活、ちゃんと出てる? 天文部」
「いや。不本意ながら、幽霊部員」
「だろうな。新学期の初っ端と言ったら、普通は何か集まるもんだぜ。それな
のに、こうして一緒に帰るってことは」
「しばらくすると、津野嶋と試合がある。それを乗り切ったら、いい加減、ち
ゃんと部活に参加するつもりさ」
 二人の話を聞いて、純子も鳥越から勧誘されたことを思い出していた。天文
部に自分も入ろうかな。
(どれだけ出席できるかは仕事次第だけど、相羽君と一緒にいる時間を増やせ
るのなら、名前だけでも入っておく方が……でもそれって、失礼な気がするし)
「試合が終われば、ピアノをやりたいんじゃないのか」
「うーん。もちろんそれもある。何とかして、両立させないとな」
 ピアノと聞いて、今朝のことが思い浮かんだ純子。エリオットとどんな話を
したのか、すぐにでも聞いてみたかったが、あの場にいなかった唐沢がいる内
は尋ねにくい。後回しにしよう。
「それよりも唐沢。そっちこそ、テニスはどうしたんだ? きれいにやめてし
まったのかな」
「学校では触ってないけどさ、やりたくなるもんだねえ。習い性になるという
か、身体に染み着いているというか。よく運動公園に行って、なまらない程度
に動いてるよ。ああ、それに、デートのときにもたまにやる」
「――集団デートでか」
「集団と言うほどでもないが。女子ダブルスのトーナメントに、一チームだけ
混合ペアがいる感じだな」
「……唐沢一人だけ腕が突出していて、強すぎるだろ? 勝負にならないと、
面白くないんじゃあ?」
「そこはそれ。適当に合わせてプレーするのさ」
「それだと、おまえ自身が面白くないだろうに」
「でもないぜ。女の子達に囲まれてるだけで、面白いというか楽しい」
 唐沢は言い放つと、からからと笑った。その軽快さのあまり、車内の注目を
浴びてしまう。幸い、非難めいた視線ではなかった。加えて、ちょうど駅に到
着するところで、車内放送が入る。
「涼原さんは、伊達眼鏡の一つでもしないのかい?」
 唐沢からの突然の問い掛けに、純子は相手をまじまじと見返した。
「どういう意味?」
「さっき、他の人達に注目されたとき、顔を伏せただろ」
「え? そうだったかなぁ」
「心持ち、だったけどね。俺はそれを見て思ったわけ」
 手振りを交えて話す唐沢。停まっていた列車が再び動き出した。
「有名人だと気付かれて、騒ぎになるとまずい。だから、顔を伏せた」
「違うよー。全然、考えもしなかった。実際、だーれも気付いてないし」
 両腕を広げて笑うと、純子は肩をすくめた。
「そうかなあ。じきに、変装が必要になるに違いないと踏んでるんだが。ま、
それは別にしても、眼鏡を掛けた顔も見てみたいもんだ」
「どうして?」
「うん?」
 直球を打ち返され、一瞬目を剥き、困惑顔になる唐沢。「それは……」と口
ごもりつつ、相羽に話を向ける。
「相羽だって、見たいよな」
「僕は見たことある」
「何? どこで」
「あれは、モデルの撮影のとき、小道具に使ったんだっけ、純子ちゃん?」
「そうよ。色んなイメージで撮りたいからって」
「むう。そのとき、俺も居合わせたかった」
 だから何故、眼鏡姿を見たがるんだろ? 純子の疑問は解消されなかった。
 次の駅が近付いてきたとアナウンスがあった。すると、唐沢が席を立った。
「じゃ、俺、ここで用事があるから」
「え、降りちゃうの?」
「そ。またな。――相羽、しっかりやれよ。頼むぞ」
 唐沢のエールに、相羽は片手を軽く上げる仕種だけで応じた。純子には、意
味のよく分からないやり取りに見えた。
 唐沢が下車したあとで、どんな用事なのかを聞きそびれたと気付いた。仕方
がない。相羽が知っているかもしれないから聞いてみよう……と思ったのも束
の間、もっと大事なことを思い出した。
「ね、相羽君。今朝、エリオットさんと会ったとき、何の話をしていたの? 
ほとんど聞き取れなかったから、気になっちゃって」
「ああ……」
 純子が大きな目をして見つめると、相羽は口を開けたが、そのまましばし無
言を通した。前髪を手で梳き、上目遣いになって天井を見やる。
(ん? 聞いてはまずい話だった?)
 純子は瞬間的に肩に力が入り、すぐに抜けた。すんなり教えてくれるものと
信じて疑わずにいたため、予想外の反応に戸惑う。
「あ、あの。差し支えあるなら、いいわ。ただ、相羽君のこと、何でも知って
おきたいなあと思っただけで……あは」
 言っている内に、気恥ずかしさを覚えて、笑ってごまかす。赤くなった顔を
彼からそらした。
 相羽は深呼吸を肩でして、落ち着いた調子で口を開いた。
「――そうだね。君にも関係ある話だから、言っておくべきだ」
「相羽君?」
 再び、純子の意識が相羽に向く。赤面も元通りになっていた。
「以前から、エリオット先生には話を持ち掛けていただいていて……」
「何の話?」
 相羽の気持ちはまだ固まっていないらしく、核がはっきりしない。純子はそ
れでも、ある予感から表情を曇らせた。
 相羽が向き直り、「そんな顔をしないで」と苦笑いをなす。
「で、でも」
「想像ついたみたいだけど、そう、留学しないかと言われてたんだ。返事を曖
昧にしてきたから、ここ何ヶ月かは特に話題に出なくなっていたのが、今朝、
また言われちゃった」
 自嘲気味に笑う相羽。純子はくすりともせず、続きを待つ。
「年齢的にラストチャンスだってさ。エリオット先生の言うことは、よく理解
できるんだ。音楽家を志す人は、早い内から本格的に指導を受ける。小学校入
学前からでさえ、ざらにいる」
(そんなことは、後回しでいいのよっ)
 心中で叫ぶ純子。真っ先に聞きたいのは、現在の相羽がどうするか、である。
突き詰めれば、留学する気になったのかどうか?
 相羽は純子からの痛い視線を感じたのか、少し姿勢をずらす。核心にはまだ
入らない。
「僕がピアノを始めたのも似たような年頃だったけれど、父さんから教わった
のみで、フォーマルな音楽的教育を受けてはいない。高校に入って、エリオッ
ト先生に特別に教えてもらっているのが初めてだと言っていい。世界中にいる
凄い才能の持ち主達には、足下にも及ばない。スタートの遅れが致命的」
 純子は、そんなことないわと思った。しかし、今、励ましの言葉を口にする
なんて、絶対にできなかった。
「エリオット先生は、現時点からでも充分に追いつけると言ってくださるんだ
けどね。多分、父さんに対する負い目があって、お世辞を交えているんだ。先
生がそれを意識してるかどうかまでは分からないけれど。で、まあ、それが理
由の全てっていうわけじゃなく……純子ちゃん」
「はい」
「君がいるし。だから、留学はしないよ」
「――」
 胸が鳴るのを、本当に聞いたような気がした。嬉しさよりも、驚きと興奮が
先に来る。表情が見る間に輝く。
 純子は右手を胸元に置き、その上から左手を重ねた。
「相羽君。それじゃあ」
 純子に対して相羽は静かに微笑んだ。ただ、それだけ。
 車両の揺れが、身体に伝わってくる。もうこの話はおしまい。そう思った。

           *           *

 電車を降り、駅を出て最初の信号を渡りきった地点が、彼と彼女達にとって
の分かれ道である。
「じゃあ、こっちだから。ああ、さみしいなー」
 唐沢が眉根を寄せて、幾分芝居がかって言うと、女の子達が「私も」「私も
だよー」「私だって」と競うように主張した。
「仕方がない。続きは明日の楽しみにしよっと」
「唐沢くーん、ばいばーい! またねー」
 女の子達のさよならの声に手を振って応え、唐沢は角を曲がった。彼女らか
ら見えなくなったところで、満面の笑みが消えて、学生鞄を持つ手を交代する。
(また明日、か……こんなこと、ずっと繰り返すんだろうな、ここしばらく)
 一月になって寒さが厳しさを増していた。太陽が傾き、視覚的にも寒々しい。
加えて本日は風がきつかった。唐沢は首をすくめ、マフラーを巻き直した。
「唐沢君」
 後方から、涼原純子の声がした。このところ、一緒に下校する機会が減って
いる。それは彼女自身の忙しさによるものだったが、今日は唐沢が大勢の女子
達との下校を選んだのだ。
「やあ。どうしたの、こんなところで。とっくに帰って仕事かと思ってたぞ」
 振り返りざま、唐沢は言った。純子を目の当たりにして、寒さが和らいだよ
うに感じた。
「今日は何もないから」
 耳当てを手に、純子は幾分硬い表情で答えた。白い息が夕焼けの光に浮かぶ。
「だったら、なおさら早く家に帰って、休めばいいのに。風邪でも引いたら大
変だ。みんなは一緒じゃないのかい?」
「唐沢君に話があって、待ってた」
「――あ、そう」
 意外さと同時に、少し嫌な予感が走る。遂に来るべきときが来たか……純子
の表情からそう直感した。
「歩きながらにしようか」
「ええ」
 改めて帰路を辿り始める。純子が行くと、すれ違った人の多くが振り返るよ
うだ。ほんの数歩後ろから眺めるだけで、よく分かる。
 歩きながら話そうと言ったのに、ついつい黙ってしまう。唐沢は自身の予感
が当たりなら、聞きたくないと思うし、純子も恐らく話しにくいのだろう。
「話って、何」
 仕方なく、唐沢から尋ねた。疑問文ではなく、つぶやき口調で。
 純子はぽつりぽつりと口を開く。
「あのね。唐沢君。私――」
「もしかして、相羽のこと?」
 先に言った。先を行く純子が振り返る。目が大きく開かれ、知ってたの?と
問い返しているも同然だった。
 そして純子が微苦笑を浮かべた。自嘲気味の笑顔。彼女は息を吸い、吹っ切
るかのように続けた。
「――私、相羽君と付き合ってる」
「やっぱりその話か。新学期になって、学校での様子とかから、何となく感じ
てはいた……」
 唐沢は努力した。
「いつ告白したの? ああ、いや、告白された、かな」
 声がかすれないように努力した。
「去年の」
「あ、やっぱ、いいわ。言わなくて」
 努力が足りないかもしれない。
 純子の話を遮り、その場にしゃがむ唐沢。歩道の端っこに寄ると、片膝を立
てて、靴紐を結び直す――ふりをした。しゃがみ込まないと、膝が笑ってまと
もに歩けない気がしたから。自覚した以上に、ショックを受けていると見える。
唐沢はそんな自己分析をしながら、左右の靴の紐を順次直しにかかる。
「あー、だめだ。手袋、邪魔!」
 人差し指の部分を噛んで、手袋を脱ぐ。素肌をさらした両手をこすり合わせ
て、再度、靴紐に挑む。
(いけねえ。手まで震えてきやがった)
 小さく舌打ちした。
「涼原さん、先に行っていいよ」
 顔を上げて言ったが、逆に純子もその場に屈んだ。
「唐沢君……色々、ありがとう。それに、ごめんなさい」
 唐沢の手が止まる。
 ガードレールの向こう側を、自転車数台が声高な話し声とともに走り抜けて
いく。学生服だった。同じ高校の生徒だったかもしれない。
「お礼も謝罪も言われる覚えはないぜ」
「ありがとう」
 礼を繰り返した純子。唐沢は彼女から目を逸らすと、鼻の下を人差し指でこ
すり、靴紐を結び終えた。手間取っていたのが嘘みたいに素早く。
 立ち上がってみると、膝のがくがく感は消えていた。悪い魔法は効力を失っ
たに違いない。
「月並みな言い方になるけど」
 純子が立つのを待って、唐沢は口を開いた。今度はさして無理をしなくても
表情を作れた。
「幸せになれ」
「うん」
「今まですれ違ってきた分を取り戻して、おつりが出るくらいに、うんと幸せ
になってほしい」
「うん」
「――ああーっ! 余計なお世話だったかな」
 自分でも突然、大きな声を上げて伸びをした唐沢は、きびすを返して歩き出
そうとした。が、それでは元来た道を引き返してしまうことに気付いて、結局
三六〇度ターン。純子が不思議そうに口をすぼめ、次いで、相好を崩した。
「余計なお世話なんかじゃないわ。本当に嬉しい」
 唐沢は黙ってうなずき、歩を進めた。純子の前を通り抜ける瞬間、
「結婚式には呼んでね。気遣い無用だから」
 と、お気楽な口調で言った。そのまま歩幅を普段よりも長めにして、どんど
ん進む。背中の方で、純子が喉を詰まらせたみたいに絶句し、それから言葉に
ならない何ごとかを口走った。

 新学期が始まって最初の休日にも関わらず、唐沢は家でごろごろしていた。
あまりに珍しいものだから、親に怪しまれたほどだ。
「今日はデートじゃないないのかい?」
 部屋まで来て、母親がわざわざ聞いてくる。
 最初の頃――小学生の頃――は、両親も息子が大勢の女子にもてるのを頼も
しく、あるいは誇らしく感じていたようで、特に咎め立てもせず、むしろ奨励
するような言い方をしたものである。
 それが、中学の三年生辺りになると、高校受験がちらつくのか、それともも
っと身体的なことを不安視したのか、それはまあどうでもいいのだけれど、と
にかく付き合いをセーブするようにと、口うるさくなり始めた。
 ところが、遊び好きで軟派な性格だと思っていた息子が、何をきっかけにし
たのか一念発起の猛勉強をし、それまでの実力ではとても入れそうになかった
緑星高校に合格してしまったものだから、驚くやら喜ぶやら。
 結果、この子は本気になればできる子だとのお墨付きを親から受け、現在、
唐沢は自由気ままに多数の女子と付き合っている……という次第。
「いくら俺でも、たまには休息が必要なの!」
 うるさいなと思いつつ、唐沢は大声で答えた。母親は何やら笑い声を立てて、
それっきり立ち去ってくれた。
(やっと行ったか。心静かにしたいんだ。邪魔してくれるな、お袋さんよ)
 独語めいたつぶやきを口の中でもごもご言い、唐沢は仰向けに寝転がった。
 一昨日、聞いたばかりの話を、今一度噛みしめる。
(涼原さん、相羽の奴ととうとう一緒になれたか)
 頭の後ろで手を組み、天井を見るともなしに見ていた両眼を閉じた。純子と
相羽の楽しげに会話する様が、鮮明に浮かぶ。
(めでたし、めでたし)
 心の中で、そう唱える。何だかすっきりしない。声に出して、同じようにつ
ぶやいてみたが、気分は晴れなかった。
「めでたくない、俺にとっては」
 目を開け、苦笑に顔を歪める唐沢。片腕を解き、身体を横に向けた。腕枕を
して、今度は部屋の壁をぼんやりと見つめた。
 視線の先には、角があった。ポスターの角っこ。その部分だけを見ていても
何だか分からない。
 上目遣い――今の唐沢にとっては横目だ――をすると、そのポスターには純
子が大写しになっていると確認できた。無論、風谷美羽としてのものだ。
 両親や友達(男女を問わない)が来たときのことを考え、目立たないように、
低い位置に貼った。ちょっとクローゼットを動かせば、隠せる。
(知らなかった。俺って案外、あきらめが悪いな。いつまでもポスター、あの
ままにしておくなんて)
 穴を空けるのがもったいなくて、画鋲を使わず、専用の特殊テープで貼り付
けてある。剥がすのも簡単だ。だが、実行しない。
「あーあ」
 また仰向けになった唐沢は大きく伸びをした。力が入って、両腕が震える。
(もっと、すっきりするものだと思ってたんだが……実際はすっきりしない。
これはどうやら、きちんと告白した上で、すっぱりふられるという段階を踏ま
なかったせいだな。身を引くなんてのは似合わなかった)
 自嘲したあと、ため息が出た。
(ま、ふられたことには変わりなし。うーむ。二度目だからって、失恋に慣れ
るなんてことはないぜ)
 唐沢は身体を起こすと、髪をかきむしり、そして思い起こした。
 一度目の失恋のことを。
(あれは、不覚以外のなにものでもない)
 唐沢が再び自らに対して苦笑いしたその刹那、母親からの声があった。
「芙美ちゃんが来たわよー」
 がばっ、と身体を起こし、そのまま立ち上がると、ドアをあたかも蹴飛ばす
ようにして開けた。派手な騒音に、母親からの「何やってんの!」と叱りつけ
る声が飛んで来た。
「今行く」
 すれ違う刹那、母の表情を盗み見る。小言が始まりそうだったので、きれい
に無視して、足早に玄関に向かった。他の女子ならともかく、芙美が相手なら、
この格好のまま出てかまわないだろう、と考えながら。
 廊下の突き当たり、上がりかまちにいる町田の姿を捉え、唐沢は肘を曲げて
片手を上げた。
「おう、珍しいな。何か用か?」
「ご挨拶ね」
 町田は鼻でため息をついたらしかった。そして唐沢が充分近付いたところで、
続きを喋り出す。
「女の子が訪ねてきたんだから、もうちょっと喜びなさいな」
「おまえ以外なら、喜んでたかもしれないな」
「ふん。だいたい、休みの日なのに、何であんた、家にいるわけ?」
「ここは俺ん家なんだけど」
 眉を寄せ、唇を曲げる唐沢。
「てっきり、誰かとデートかと思ってたわ」
「そう思うんだったら、どうしておまえは来たんだよ」
 唐沢は腕組みをし、相手に顎を振った。町田はかすかに笑って、「さあ? 
どうしてなんだろうね」と返事をした。
「何だそりゃ? 意味が分からん」
「いると期待してなかったけど、念のために訪ねてみたら、思い掛けずいて、
びっくりしてるってところよ」
「ふむ。で、何の用だ」
「早く追い返したいの? そんな立て続けに、何の用何の用って」
「できれば一人になりたい気分でね。それに、何となく落ち着かないんだよ、
おまえとこうして面と向かって話してると」
「あんたから私の家を訪ねてきたとき、よく話してるじゃない。あれと、同じ
でしょうに」
「それほど単純じゃねえよ。ここに誰か女の子から電話が掛かってきでもした
ら、妙に緊張してしまうじゃねえか。おまえが盗み聞きすると考えるだけで」
「失礼な。そんなことしないわよ」
 言って、苦笑の声を立てる町田。
(あん?)
 唐沢は拍子抜けをして、思わず首を突き出した。
(もっと怒るかと思ったんだが、笑ってやがる。芙美のやつ、今日は調子悪い
のか? まさかな)
 このあとに何か大きな関門が待っているのかもしれん、と警戒しつつ、唐沢
は腕組みを解いた。手を振り、町田に話を促す。
 町田は真剣な顔つきに戻って、何気ない調子で言った。
「落ち込んでるんじゃないかと思ってさ」
「落ち込んでる? 誰が? 俺がか?」
 三連続疑問文の後、自分自身を指差した唐沢。そこに、町田からも指差され
てしまった。
「そう、あんたが」
「どうして、そんな風に考えたのかな」
 町田は頭の向きを少し換えた。家の奥を覗くような仕種だ。
「……おばさんに聞こえてもいいの?」
 この台詞で、唐沢には完全に察しが付いた。
(芙美め、涼原さんと相羽のことで、来たんだな?)
 歯ぎしりを一瞬だけして、唐沢は大げさにうなだれた。
「よく分からんが、上がるか? 俺の部屋、散らかってるけどな」
「知ってるわ。昔からだもの」
 軽快な返事があった。二人は部屋に向かった。
 自室に入ると、唐沢は町田を通したあと、ドアを閉めるべきか否か、迷った。
 そこへ、町田が言う。
「寒いから、閉めたら?」
 声のした方へ向くと、町田はすでに座るスペースを見つけて、くつろいだム
ードを醸し出していた。
 唐沢は「ああ」と曖昧な発音で応じ、ドアを閉めた。音がした。それから町
田の前まで行ったが、向き合って座るのも何なので、勉強机から椅子を引き出
し、腰を下ろした。
「思ってたほど、散らかってないじゃない」
 室内を見回す町田。
「期待外れで悪かったな。すけべ本の一冊も落ちていないだろ」
「ふふ。でも、何かごろごろしてたみたいね。絨毯にブランケット。さらにし
わがひどい」
「だるかったから」
 投げ遣りに答えた直後、はっと気付いた。
(ポスターが丸見え……まあ、いいだろ。大勢に影響あるまい)
 純子のポスターに視線を飛ばし、すぐさま来訪者に戻す。町田はお見通しと
でも言いたげに、目を合わせ、にっ、と笑った。
「早く用件を言えよ。不気味に笑ってないで」
「純のポスター、本当にもらってたんだなあ、と思って」
「もらわないと言って、あとでこっそりもらうよりは、ずっと健全だぜ」
「変な言い種」
 町田は瞼の上を軽く押さえると、そのポスターを見つめながら続けた。
「あきらめはついたの?」
「とっくに、あきらめてたさ」
 伏し目がちになって、肩をすくめる唐沢。こうでもしないと……。
「おまえは知らないかもしれないが、俺はずっと、相羽と涼原さんの二人を応
援していたんだからな」
「私とおんなじね」
「いや、違うだろ」
 唐沢が言下に否定すると、町田は「何よ」と口を尖らせた。唐沢はしばし考
え、椅子のシート部分を半回転させた。もう半回転し、ぐるりと一周した形に
なって、話そうという気持ちが固まる。
「俺は涼原さんを好きだったのをあきらめて、応援するようになった。芙美は
そうじゃないだろ? 相羽のことを好きだったが、あきらめて……なんてこと
はなかったはずだ」
「何を根拠に、そう断定するのかしら」
 またも口を尖らせた上に、頬を膨らませる町田。これで眼鏡を掛けていたら、
出目金さながらだ、でも愛嬌のある出目金だなと、唐沢は思った。
「……だって、縁遠そう」
「そんなことないわよ。私だって、人並みに。相羽君を初めて見たとき、ちょ
っといいなと思ったわよー。かなり傾いていたんだけれど、ほら、やっぱりね」
「何が、ほら、だ」
「見ていて、じきに分かったのよ。相羽君が好きなのが誰かってことが。分か
り易いでしょ、彼」
「その点は同感だな」
「私はきれいにあきらめがついたけれども、あんたが簡単にあきらめきれると
は、思えない」
「あきらめたって言ってるだろうが。第一、今さら、二人の仲に割り込むなん
て無粋、できるかよ」
 椅子から立ち上がりかけ、憤慨気味の唐沢に、町田は首を振った。
「言い方が悪かったみたいね。あきらめられないじゃなくて、未練が残る、と
表現すればいいかな」
「……分からん。同じような気が」
「だからぁ、実際に純にアプローチすることはもうないけれど、気持ちの上で
吹っ切れていないってことよ」
「そりゃま……涼原さんはかわいいからな。悔しいというか惜しい気持ちはあ
る。でもな」
 席を立つと、唐沢は両手を上げて大きく伸びをした。まるで、部屋には自分
一人しかいないかのように、町田の目をはばかることなく、オーバーな動作で、
うめき声も出す。
「――おまえには意外かもしれないが、本当に、俺、すっきりしてるんだ」
「そお?」
 疑わしげなまなこで見上げ、町田はその目をポスターへと向けた。
 唐沢は町田に口を開かせないよう、そして、自分がいくらか強がっているこ
とを悟られないよう、急いで言葉を差し挟む。
「要するに、俺は涼原さんのファンになったんだ。それでも誤解があるってん
なら、風谷美羽のファンさ」
「ふむ。なら、理解できなくもないわ」
 町田が優しげな、ほっとしたような笑みを見せた。そこから一転、からかい
口調でつぶやく。
「これで、また一人対大勢のデートの日々ってわけね。積極的賛成はしないけ
れども、初恋が破れたんだから、まあ、しょうがないか」
「……違うぞ」
 うなじにやっていた両手を下ろし、椅子に戻ろうとしていた唐沢は、動きを
止めて、そう答えた。
 町田が暫時きょとんとし、やがて微笑む。
「デートをしないっての? 志は立派だけれど、あんたがそれで我慢できると
は、とても信じられません」
「俺が否定したのはそこじゃなくて、初恋が破れたって話だよ」
 椅子ではなく、床に腰を据え、町田と向き合う唐沢。真剣だった。
「へえ。純が初恋の相手じゃないの? ということはつまり、あんなにたくさ
ん、十把一絡げに付き合ってきた中に、本命がいた? 意外だわ。誰よ」
 町田の方は、依然として笑い飛ばすような物腰のまま、興味ありげに聞いて
くる。唐沢は、自分がどう認識されているのか分かってきて、つい苦笑した。
「そうじゃないさ」

           *           *

 純子は一人、下校路を急いでいた。久しぶりに仕事に関わるスケジュールが
何にもない。でも急いでいるのは、早く帰って、ゆっくりしたいから。
(こういうときに限って、相羽君の方に用事があるんだから)
 不満はあったけれど、どうにもならない。それに今日は、学校でいっぱい話
したので、何とか我慢できる。
 自宅からの最寄り駅に着いて、道路に出たところで、車のクラクションが軽
快に鳴った。その音がした方角を見る。
 白いスポーツカーが、前方からゆっくりと近付いてくる。左側の窓が下がり、
運転手が顔を覗かせる。
「久しぶりだね。覚えてる?」
 サングラスを取ると、その男性が言った。純子は短い間、考え、思い出した。
「西山さん。お久しぶりです」
 歩道を離れて車のすぐ隣に立つと、頭を下げた。西山竜一郎(りゅういちろ
う)、カメラマンだ。純子の写真集には、複数名のカメラマンがシャッターを
切ってくれたが、その中の一人が、西山である。かなりの枚数を撮った。
 一瞬、見違えたのは、撮影中の西山は終始むすっとしていたし、その当時は
顎髭を蓄えていたため。今目の前にいる彼は、こざっぱりとした好青年風だ。
「撮影のときは、ありがとうございました」
 いくらか緊張して、固い挨拶をする純子。撮られながら、よく言葉を掛けて
もらっていたものの、それ以外でお喋りしたことは数えるほどしかない。笑顔
を好んで撮りたがる人ではなかった。
「いや。仕事だからね」
 撮影中よりも優しげな声で、西山が言った。
「それで、声を掛けさせてもらったのは、写真集と関係しているんだが、鷲宇
か誰かから聞いてるかい?」
「え? 何のことでしょう?」
 写真集については、もうすぐ(と言っても三月頃)出版という話だけ聞いて
いる。もう終わったものと思っていただけに、焦る。
「一部、写真の差し替えが決まってね。これから撮り直しなんだよ」
「ええっ?」
 先ほどよりも声が大きくなり、ますます焦った。鞄を持ち換え、一歩、車体
に接近して、よく聞こうとする。
「きゅ、急な話ですね」
「急に決まったから、仕方がないんだ。さあ、乗ってくれ」
「乗ってって……今から撮影ですか?」
 問い返すのが、悲鳴のようになってしまった。目の前の西山は、冗談でも何
でもないように、右側のドアを開けている。
「そうだよ。調べてみたんだけど、君のスケジュールの中で、空いているのは
今日くらいのものだろう?」
「はあ」
「だから、押し込ませてもらった。撮影できるのは今日だけなんだ。時間を無
駄にしたくない。急いでくれないか。連絡の不徹底は詫びる」
「え、じゃ、じゃあ、せめて家に電話を」
 返事を聞く前に、鞄に手を突っ込み、携帯電話を取り出す。短縮ボタンを押
した。目の前で西山が苦い顔をするのが見えたが、これくらいは許してもらわ
ないと困る。彼に背を向け、電話に出た母に事情を説明した。
 通話が終わり、向き直る。
「どうだった? だめと言われても、連れて行くつもりなんだが」
 平然として恐いことを言う。仕事となると、かなり強引な面がある人なのよ
ねと、嘆息する純子。苦笑いを浮かべて、感情を隠した。
「そんな心配は無用です。許可をもらいました。でも、あんまり遅くなるよう
だったら、もう一回連絡させてくださいね」
「仕方ないな。こっちも無理を言ってるんだから。さあ、乗ったり乗ったり」
 にやりと笑って、促す西山。どうやら上機嫌そう。これなら撮影も、まずま
ず楽しんでやれるかなと、純子は希望的観測を持った。

――つづく





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