AWC そばにいるだけで 58−2   寺嶋公香


        
#53/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  02/01/26  23:24  (393)
そばにいるだけで 58−2   寺嶋公香
★内容

 好天に恵まれたせいもあろう、神社は大変な賑わいで、地面の石畳がほとん
ど見えない。本殿と鳥居の間では、まるで流れ作業のように人が行き来してい
る。
「すくまで待つ?」
 近くの喫茶店を腕で示す相羽に、純子は首を水平方向に振った。
「待ってたら、もっと人が増えそう。先にすませて、ゆっくりしましょ」
 同意に至り、二人揃って、人の流れの波に乗る。お賽銭は、あらかじめポケ
ットに移しておいた。
「知ってる奴がいないかな」
 先ほど、車中での話が頭に残っていたか、相羽が歩きながら周囲を見渡す。
それでいて足下にも注意が向いているらしく、蹴躓くようなことは微塵もない。
「今は、あんまり会いたくないな。心の準備ができてないし、やっぱり、事務
所のことが気になるし」
「友達甲斐がないなあ」
 からかうような表情になった相羽が、横目で見やってくる。純子はむくれた。
「だって、私だけの気持ちじゃ、どうにもならないんだから。相羽君はいいで
しょうけど」
「ははは。ごめんごめん、怒らないで。たださあ、聞かれない内から、付き合
ってるって言わなくてもいいでしょ」
「あ――そっか」
 即座に理解できた。すると今度は恥ずかしくなって、目線を下げる。心持ち、
歩くスピードが落ちたようだ。
 途端に、後続の人混みに飲み込まれる。相羽と距離ができてしまう。
「あ」
「純子ちゃん」
 瞬間的に、左手を伸ばした。相羽がうまく掴み、引き寄せてくれた。と言う
よりも、相羽の方が立ち止まり、待っていたのかもしれない。
「ご、ごめん」
「気を付けて。はぐれたら面倒……そんな顔するなって。似合わないし、台無
しだ。ま、僕がいる限り、はぐれやしないから」
 手をつないだまま、相羽は空いている左手で純子の頭をぽんぽんと撫でた。
 優しくされつつ、相羽を見上げる純子。
「相羽君。私って、自分勝手なのかなあ。さっきの話に戻るけれど、友達のこ
とを――」
「そんなことない」
 純子の台詞を全部聞かない内に、即答する相羽。
「今の僕だって、一番に考えるのは君のことで、友達は二番以下だよ。ははは」
「……もう」
 純子は、嬉しい、という意味で言った。
「知り合いと会っても、意識することなんかないさ。いつも通りでいいんじゃ
ないか。別に、僕らが二人で初詣に来てたって、おかしくはない」
「そう……よね」
 思い返すまでもなく、去年のクリスマスイブ以前も、二人一緒に行動するこ
とは、ままあった。意識すればするほど、不自然に見えるだろう。ここは友達
気分に戻るとする。
 と言っても、手はつないだままだったけれども。
 その後、途中で賽銭箱をめがけて硬貨を投げるような不精はせず、ちょっと
ずつ進んで、最前列に来た。後ろがつかえているから、ゆっくりお参りするこ
とはかなわない。その分、気持ちをたくさん込める。
 お賽銭を放り、純子と相羽は並んで手を合わせ、そして同時に目を瞑った。
開くのもほとんど同じタイミング。今まで何度か一緒に参拝した経験から、相
手の呼吸というものが分かってきたのかもしれない。
「何てお願いしたの?」
 流れに乗って引き返しながら、純子は尋ねてみた。だが、相羽からの返事が
遅い。騒がしくて聞こえなかったのかな?と思い、もう一度聞く。
「いや、聞こえてるんだけど」
 相羽が振り向くことなしに、ぼそぼそと答える。
「じゃあ、教えてほしいな。気になるもん」
「うーん……嘘はつきたくないし」
「聞かれたら答えるんでしょ、相羽君の主義では」
 純子はバスの中でのやり取りを思い起こし、意地悪く持ち出した。相羽が肩
をすくめ、嘆息する。
「仕方がない。その代わり、純子ちゃんの願い事も、聞かせてもらわなきゃな」
「いいわよ。私から先に言おうか」
 純子が相手の顔を覗き込むようにしながら申し出ると、相羽はしばしの逡巡
のあと、「……うん」と顎をかすかに動かした。
 純子は目尻を下げ、思い切って言った。
「私はね、相羽君とずっと一緒にいられますように、ってお願いした」
「……」
 相羽がやっと純子を見た。顔だけでなく、うなじの辺りまで赤らむのが分か
る。徐々に色が濃くなっているようだ。
 そんな様子を目の当たりにして、赤面が純子にまで移った。
(や、やだなあ。さらっと受け流してくれないと、こっちも恥ずかしくなるじ
ゃない!)
 純子は動揺を隠そうと、口を開いた。少し時間を置いて糸口を見つける――
否、思い出した。
「あ、相羽君も、早く答えてよ」
「おんなじだよ」
「――ほんとに?」
「ああ。もちろん、一言一句ぴったり同じではない。僕が『相羽君とずっと一
緒にいられますように』とお祈りしても、意味ないからね」
 理屈っぽいことを言う。でも、純子にはすっかり分かっていた。これは相羽
の照れ隠しなのだと。
「なーんだ。二人で同じお願いをするなんて、損しちゃったかな。別のことを
お祈りすればよかった」
「かもね。僕らが同じように願っているなら、神様にかなえてもらわなくたっ
て、大丈夫に違いない」
「あは、罰当たりなこと言って、知らないわよ」
 神社の敷地から抜け出て、道路沿いに適当な店を探しながら歩く。当初の予
定では軽くお茶を飲んで、帰るつもりだったのが、純子の両親に引き留められ、
話し込んだせいで、変更を強いられそう。
「もうすぐお昼」
 純子は時計を見てつぶやいた。車道側を歩く相羽が即、呼応する。
「このまま急いで帰るか、それとも何か食べて行くか……。家の人はどうなの。
昼食のこと、何か言ってた?」
「ううん。特に決めてなかったから、大丈夫。相羽君の方こそ」
「そりゃまあ、帰ったら、母さんが何か用意してくれるけれど、無理に帰らな
くていい」
「ふうん」
 曖昧に返事しつつ、どうしよう、と思った。
(お正月くらい、おばさまだって相羽君とゆっくり過ごしたいかも。あんまり
長く連れ回すのは、気が引けちゃう。でも、相羽君とどこかで食べて帰るって
いうのも、魅力的だし……)
「あ、バスが来た」
 相羽が、少し先にあるカ−ブを見やりながら言った。
「ひとまず近くまでバスで帰って、向こうで食べるという手もあるか」
「――そうだわ。私、相羽君のところに、年始の挨拶に行きたい!」
「え?」
「だから、早く帰りましょ」
 腕を引っ張り、バス停まで急ごうとする純子。追い抜かれた相羽は着いてい
きながらも、慌てた口ぶりで問う。
「ちょ、ちょっと。それなら、別に慌てなくても、午後からゆっくり――」
「いいから」
「……もしかして、純子ちゃん」
「ん?」
 バス停に到着。間に合った。参拝客のほとんどはこの近辺で時間を潰すらし
く、帰りはかなりすいていそうだ。
「僕の家で食べる気? だったら、電話しておけば確実……」
「そ、そんなことは考えてませんっ」
 急ぐ必要もないのに、駆け足でバスに乗り込んだ。

 途中で知り合いに出くわすこともなく、無事、マンションまで到着した。そ
こまでの道すがら、あるいはエレベーターに乗り込んでからも、純子は同じフ
レーズを繰り返していた。
「ほんとに、いいって言ったのに〜」
 相羽宅のドアを前にして、また言う。
「ほとんどがおせち料理なんだから、遠慮することないって」
「でも〜」
 ここまで来て、まだ躊躇してしまう。これはきっと、付き合い始めたという
意識のせい。以前なら平気だったのに、今は過剰に反応してしまっている。
「じゃ、この次は、僕が純子ちゃんの家に行って、ごちそうになるからってこ
とで、どうかな」
「……それなら、まあいいわ」
 よくよく考えれば強引な相羽の提案を、それでも受け入れることにしたのは、
この辺で手を打たないといつまで経っても踏ん切りが着かないから。これでや
っと、玄関の扉をくぐれる。
 インターフォンを通して母に帰宅を告げると、相羽は鍵を取り出し、ドアを
開けた。先に純子を中に入れ、後ろ手でドアを閉める。
「お邪魔します」
「どーぞ。あ、スリッパ」
 横をすり抜けて、スリッパの用意をしようとする相羽。純子はすぐさま、呼
び止めた。
「それくらい、自分でする。……してもいいよね?」
 差し出がましいかなという思いがよぎり、首を相羽へと傾けて尋ねる純子。
ちょうど、靴を脱ごうと片足を上げていたところだったため、バランスを崩し
て倒れそうになった。差し伸べられた腕に救われる。
「あ、ありがと」
「ほら、気を付けないと」
 と言って、結局相羽がスリッパを並べた。不可抗力とは言え、人の家を訪れ
たばかりで騒いでしまって、純子はしゅんとなりつつも、靴からスリッパに履
きかえた。暖房がほどよく効いている。コートを脱いで、自らの腕に掛けると、
背後の相羽が「貸して」と手を伸ばしてきた。
 振り返ると、相羽は玄関脇のコート掛けを指差している。純子は「ありがと
う」と口では言ったけれども、自分でコートを掛けた。相羽が笑みをなした。
 いくらか緊張した心持ちのまま廊下を進むと、相羽の母が姿を見せた。突然
だったものだから、慌てて頭を下げる。
「あ、明けましておめでとうございます、おばさま」
「明けましておめでとう、純子ちゃん」
 柔らかな物腰で応じた相羽の母は、続いて「ゆっくりしていってね」と言い
ながら、早々と食堂へ通す。相羽はその後ろから着いてきた。
「あの、急に押し掛けてきて、すみません」
「そんなこと、気にしないの。大歓迎よ。もうしばらく待っていてね」
 背中に手を添えられ、椅子に案内される。緊張感はほぐれたが、かしこまっ
てしまうのには変わりない。
(お父さんやお母さんと違って、おばさまは、私と相羽君が付き合い出したこ
とに感づいているかしら。凄く気になる)
 純子の心中などつゆ知らず、相羽の母が料理を並べ、お茶の準備をする。相
羽も当然のように手伝い、こまめに動く。
(落ち着かない……)
 純子は二分と経たない内に、椅子を離れた。何も言わず、今はこちらに背を
向けている相羽に近寄った。
 振り返って純子に気付いた相羽は、ほんの一瞬、びっくり顔。でもそのあと
は、アイコンタクトだけで意志疎通ができた。食器のリレーだ。純子は湯飲み
やお茶碗を手際よくテーブルに並べた。
「あ、ありがと、純子ちゃん。お客さんなのに、悪いわね」
「いいんです。身体を動かしていたいから」
 そう答えてから、相羽とその母の姿を視界に捉えて、純子はふと思った。
 もし結婚したら……と。

「久住淳としての仕事の方は、いつからになってるの?」
「四日から、アニメの声優の仕事が。エンディング曲のレコーディングと同時
進行らしくて、大変そうなんですけど、がんばらなくちゃ」
「そう。私も純子ちゃんのために、結構大きな仕事が取れる見込みなんだけど
な。引き受けてくれる余裕がなさそうね……」
 箸の動きを止め、困った風に唇を結び、思案げに首を傾げた相羽の母。純子
はモデルの仕事も好きだから、話を聞いてみたいと思った。その意思表示をす
るよりも早く、相羽が口を挟む。
「母さん。そういう言い方をして、内心では引き受けてもらおうと思ってる」
 口調に非難めいた響きを持たせ、母親を見据える相羽。
「そりゃあ、当然よ。引き受けてもらいたいわ」
「純子ちゃんの身体は、一つしかないんだけど」
「でもね、やってみて絶対に得する話よ。信一も、純子ちゃんがきれいに着飾
ったら、嬉しいでしょ」
「……着飾らなくても、充分だ」
 相羽が答えたのを折りと見て、純子は顔を赤らめ得ながら、おずおずと割っ
て入る。
「あ、あの、おばさま。私の体調なら、問題ありません。今は心身ともに絶好
調!ですから。とりあえず、話を聞かせてください」
「そう? でも食べながらじゃ落ち着かないから、このあとでね」
「はい」
 うなずいてから、純子は相羽の方を振り向いた。怒っているようにも見える。
「ごめんね」
「え? 何を謝ってるのさ?」
 相羽は文字通り、目を丸くした。箸は御飯をつまんでいたが、それを茶碗に
戻して、純子の話を聞く。
「だって、折角、相羽君に誘ってもらって来たのに、こんな仕事の話になって
しまって……」
「気にしない」
 相羽は短く言うと、何気なくではあるが、躊躇する仕種を見せた。母親の方
をちらっと見て、
「母さん。あとでデザートがほしいんだけど、何かある?」
 と、話題を換えたかのように振る舞う。純子が小首を傾げる前で、相羽の母
は、唇を尖らせる風にして応じた。
「唐突ね。買い物に出てないのだから、昨日と変わってないわよ。アイスや果
物が少しと、チーズケーキと……。食べ足りないようなら、お汁粉もできるし」
「確かめてきてよ。冷蔵庫の中を見て」
 いやに命令口調だ。似合わないなー、珍しいわ、と不思議に感じる純子は、
目をぱちくりさせていた。
 ところが相羽の母は、肩を上下させて息をつくと、しょうがないわねとばか
りに微笑を浮かべる。食卓に両手をつき、椅子をずらす音を立てて、腰を上げ
た。それから息子の顔を指差す。
「分かりました。そんな遠回しな真似をしなくても、純子ちゃんと話がしたい
のなら、私はしばらく台所に引っ込んでるけれど?」
「――何のことだか」
 相羽は一瞬、ぐっと詰まったものの、そのタイムラグを最小限に抑えて返事
できた。純子はそんな相羽と彼の母とを等分に、交互に眺めた。
(えっ、え? ということは、おばさまの指摘は図星なの? さすが、お母さ
んだわ……って、それよりも)
 最終的に、純子の視線は相羽の横顔を捉えた。見つめて、待つ。
 母親の姿が台所の方向に消えると、相羽が振り向いた。背もたれに片方の肘
を載せ、上体を折り曲げる風にして顔を近付けてくる。
 純子は、ほんの短い間、勘違いをした。
(まさか、キス? そ、そ、そんな大胆な!)
 もちろん、そんな大胆な行動に出るはずもなく、相羽は内緒話をするときの
ように、手の平を口元にあてがった。
 純子は自分の早とちりに赤面しつつも、耳を向ける。相羽の息が届いた。
「僕は、何もかも含めて、君が好きなんだ」
「……」
 胸を反らし、顔を遠ざけると、相羽を見返す。風邪で熱が出たときみたいに、
真っ赤になっていた。今の純子の様子を擬態語で表すなら、てれてれ、か。漢
字を当てはめれば、もちろん、照れ照れ。
「モデルの仕事のことなんか、関係ない」
 笑みを浮かべた相羽の声量が、元通りになっていた。彼もさすがに頬に朱が
差していたが、その自然体は揺るがない。
「……よかった」
 純子の口からやっと言葉が出た。こちらの方は、相羽の母に聞こえるとまず
いという意識が働いて、小さな声だ。「ほっとしちゃった」と言い足しながら、
本当に胸をなで下ろす。
「でも、それ以上に、どきどきさせられたわ」
「他に言い方を思い付かなくて」
 相羽はそれから台所の方へ向き、「デザートは?」と聞いた。この問い掛け
に、もはや大した意味はない。
「純子ちゃんは何がいいかしら? カスタードプリンも出て来たんだけれど」
 相羽の母は心得たものだった。

 仕事始めを兼ね、ルーク事務所に顔を出した純子は、思いも寄らぬ打診で出
迎えられた。
「鷲宇さんから先に聞いているかもしれないけれど」
 市川は新年の挨拶もそこそこに、そんな前置きで始めた。格好も、普段の彼
女と全く変わるところがない。
「久住淳、ライブをやることになったからね」
「ええ!」
 確かに鷲宇から予告されていたプランだが、決定したと聞くと、やはり慌て
てしまう。脱いだコートを掛けるのも忘れ、市川へ向き直った。
「ど、どこで、どんな風にやるんですか。あ、あの、鷲宇さんは一緒に――」
「とにかくコートを掛ける」
 指差されて、純子はその通りにした。それでも、詳しいことを早く教えても
らいたい気持ちは強く、市川の口元をちらちらと見た。おかげで手元が狂う。
ようやくコートをフックに掛けたところで、今度は椅子を勧められた。
「あの」
「杉本君、お茶を用意して」
 市川の命を待ちかまえていたみたいに、杉本はお盆に湯飲みと急須を載せて
飛んで来た。そして、「あつつ」と耳たぶを摘みながらも、杉本にしては手早
くお茶を注いでいった。
 純子は出されたお茶に少しだけ口を着け、両手を膝上に揃えた。
「落ち着いた?」
 市川に尋ねられ、はいと返事する。
「じゃあ、そろそろ始めよっか。最初に言っておくと、ライブのことは全部、
鷲宇さんが企画されるから。私も興行を扱うのは初めてなので、さすがに鷲宇
さんにお任せしてるわけ」
「はあ」
 文句は鷲宇さんに言ってという意味なのかしら……純子はそんなことを頭の
片隅で考えつつ、うなずいた。
「ライブは、私一人なんですか? 前にテレビで唄ったときは、鷲宇さんが一
緒に出てくださって」
「今度からはあなた一人。一本立ちのときってことね。まず、春休み中に近場
の小さなところで一回やって、ゴールデンウィークには――」
「三月、ですか?」
 つい、遮った。市川が話を中断してくれたので、続けて聞く。
「準備期間が短いんじゃあ? 普通、ライブやコンサートって三ヶ月から半年
くらい前にチケットを売り出しているように思いますけど」
「いいの。鷲宇さんがちゃんと考えてくれてるから。春の分は、シークレット
ライブ形式にするそうよ」
「シークレットライブ」
 おうむ返しに言って、その単語の意味を噛みしめる。ほとんど無意識の内に、
お茶に手を伸ばした。口中を潤し、
「限られた人だけを入れるんですか?」
 と確認を試みる。市川の返答はイエスだった。純子は思わず、不安を漏らす。
「そんなに人が集まるかなぁ……」
「自信を持ちなさいって」
 市川は楽観的だ。純子はとてもそんな気分になれなくて、杉本を見やった。
どうやら彼も市川と同意見らしいと知れて、あきらめの境地に至った。
 市川はかまわず、話を元に戻した。
「三月にお披露目したあと、ゴールデンウィークにはミニツアーで各地を回る
の。ゴールデンウィークの言葉通り、一週間の予定ですって」
「各地?」
「鷲宇さんによると札幌、仙台、東京、名古屋、大阪、博多……中国地方も入
れたいと仰ってたわね。その場合、日程は八日間になるかもしれない。七日で
七公演はきついでしょう?」
「それはもちろん……って、違います! その前に」
 純子は腰を浮かすと、両手をテーブルについた。湯飲みの中が波を立てる。
「いきなり全国って、そんな無茶苦茶な!」
「いきなりじゃないわ。三月に」
 純子は市川をじと目でにらんだ。
 市川は口をつぐみ、両腕を広げて肩をすくめるポーズと咳払い一つを挟むと、
「あくまでも、鷲宇さんが決めたことなのよ」
 と苦笑しながら言った。
「それじゃあ、鷲宇さんに抗議……してみま……」
 語調がどんどん失速して、語尾は消え入りそうになった。鷲宇相手に抗議し
ても、聞き入れてもらえるとは考えにくい。
(何かこう、具体的に反対する根拠があれば、翻意してもらえるかもしれない
けれど、私には無理です、とか、自信がありません、なんていうのは、鷲宇さ
んは一切認めないんだもの)
 分かっている。分かっているだけに、純子はため息をつくばかり。
「そんなに深刻に受け止めなくたって、三月にやって、その調子を見てからで
いいじゃないの」
「三月の頃には、五月のミニツアーの日程もすでに正式決定してると思うんで
すけど」
 市川の気休めを、純子はきっぱり、はっきり、はねつけた。でも、仕事をは
ねつけることはできない。それは純子の性格もあるけれど、心のどこかでいつ
かやらなくちゃいけない、やってみたいと望んでいたことだからかもしれなか
った。
「声優のお仕事との兼ね合いは、大丈夫なんでしょうか」
「おや。やる気になったな、この子は」
 市川は相好を崩し、気味悪いくらいに嬉しそうになった。両手を合わせなが
ら重ねて言う。
「声優の方は全く問題なしよ。いざとなったら、強引に差し込めるし。それよ
りも問題は風谷美羽ね。モデル仕事との重なりが心配だわ。詩津玖から何か聞
いてない?」
「五月の話はまだ何も……」
「先に押さえちゃっていいのかしら」
 ふふんと笑いつつも、気にする素振りの市川。さすがの彼女も相羽詩津玖の
仕事を邪魔したくない、バッティングを避けたいとの思いが強いようだ。
「今度お会いしたときに、私の口から窺っておきますから、しばらく待ってて
ください、市川さん」
「しょうがないわね。私自ら聞いてもいいんだけど、ここは純子ちゃんに任せ
るとするか」
 市川はどこかしらほっとした様子を覗かせていた。
「もう一つ気になることがあるんです。曲の数が……」
「そりゃもちろんカバー曲も入れないと持たないでしょうね」
 あっさり言われてしまった。ひょっとすると市川は単なる穴埋めのためのカ
バー曲と考えているのかもしれないが、有名で人気のあるスタンダードナンバ
ーほど、独自色を出すのは難しいし、大元の唱い方を越えづらい。純子にとっ
ては、自分自身の曲以上に神経を使うのだ。
「まあ、ライブコンサートの構成も、鷲宇さんが全て考えてくださるから、そ
の点では大船に乗った気でいていいんじゃないかな。あとはあなたの唱い方、
パフォーマンス次第でどうとでも転ぶ」
「そう、ですね」
 今の内から腹を決めねばならない。純子は低いが強い調子で言った。真剣な
眼差しになって考え込む様子の彼女に、市川がハンドバッグの中から取り出し
た白い物をちらつかせる。
「ところで純子ちゃん」
「はい?」
 顔を起こす純子。市川だけでなく、杉本とも目が合った。
 市川が白い小さな袋を両手で差し出してきた。
「お年玉」
「え? お年玉ですか?」
 お年玉袋に指先で触れながら、純子は動きを停止した。まじまじと見返す。
プライベートの付き合いがなく、言うなれば仕事上のみのつながりの市川から
お年玉をもらおうとは思いもしないこと。
「と言うよりも、プレゼントか。プラネットシアターミュージカルに興味ある
様子だったわよね」
 市川の問い掛けに顎を引く純子。プラネタリウムの投影可能な施設で行われ
るイタリア発の舞台劇で、昨年末頃から大変な評判になっていた。純子も天文
への興味と相まって、関心を持ったものの、チケット入手はとてもできそうに
ないため、あきらめていたのだ。
「人気の公演で、取れそうにないって残念がっていたから、試しに手を回して
みたら運よく、ね」
 市川はさも何でもないことのような口ぶりで話しながら、袋を純子の手のひ
らへ押し付ける。そうして、冗談めかして付け加えた。
「ライブの仕事を嫌がるようだったら、渡さないつもりだったんだけど。無駄
にしなくてよかった。二月の休みの日、スケジュールは空けておいてあげるか
ら、楽しんでらっしゃいな」
 純子はしばしぽかんと口を開けていたが、程なくして笑みを浮かべた。そし
てありがたく受け取り、礼を述べた。
「あ……ありがとうございます」
「気にしない、気にしない。ささやかなご褒美ってところ。――ああ、二枚あ
るから、誰か友達を誘ってみたら?」
 純子は袋の中を覗いた。二枚、間違いなくあった。
 誘う相手は即座に浮かんだ。

――つづく





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