#34/598 ●長編 *** コメント #33 ***
★タイトル (RAD ) 01/12/15 20:13 (173)
【OBORO】 =第4幕・異形胎動= (05/17) 悠歩
★内容
優一郎が店売りの出来合いではない食事を口にするのは、およそ二ヶ月ぶり、
夏休みに朧月家を訪ねて以来だった。近頃では家庭的な味を売り物にした、持ち
帰り弁当を扱う店も少なくはない。下手な手料理より、コンビニの弁当の方がお
いしいと言う者も多い。しかし優一郎の舌には、いま味わっているがさつな少女
の手料理の方が弁当よりも好ましく感じられていた。
決して美食家ではない優一郎に、美鳥の腕前がはたしてどの程度のものか判断
出来ない。単に長く続いた一人暮らしの中で、作り手の温もりが伝わってくるよ
うな料理に飢えていただけなのかも知れない。とにかく美鳥の作った料理は、優
一郎の食欲を大いにそそるものであった。
美鳥に対し、必要以上に賛辞の言葉は伝えない。ただ一品一品を黙々と、米の
一粒一粒をゆっくりと味わう。どこか懐かしささえ覚えるその味を。
最初に思い出していたのは優一郎の舌だったのだろう。やがて頭の中でも薄れ
かけていた記憶が甦って来る。母が作ってくれた料理の味が。
美鳥の料理は、母の料理とよく似た味付けがなされていたのだ。もし厳密に双
方を比較する機会があったのなら、まだまだ美鳥の料理は母のそれに及ぶもので
はないはず。が、長く母の味と触れることのなかった優一郎には、幼い頃からず
っと慣れ親しでいた懐かしいものとして感じられていた。
思えば優一郎の母と美鳥は同じ土地の生まれである。同じ朧月の家に育ってい
る。同じ味付けの料理を作ることに、なんの不思議もない。
しかし優一郎が懐かしい味をゆっくりと楽しめたのは、初めの十分にも満たな
い時間だけだった。
「ほら、ゆっくり食べなさい。そんなに急ぐと、おなかに悪いわよ」
亡くした姉に代わり、母親の役目を負うこととなった美鳥の声も聞こえぬかの
ように、一番歳下の少女は一心に食事を口の中にと運ぶ。点けられたままになっ
たテレビに流れる人気アニメも、いまの真月から関心を引くには至らない。はた
して彼女がなぜ食事を急ぐのか、それが優一郎にも無関係でないとすぐに知れた。
いち早く食事を終え、自分の食器を流しへと運んだ真月は卓上で頬杖をつき、
優一郎を見つめる。
「まあぁづき! お行儀が悪い!」
姉の叱責が飛ぶとすぐに頬杖を止め、真月は食卓から離れて壁にもたれ掛かっ
た。それでもクライマックスを迎えているアニメには関心を向けず、優一郎を見
つめていた。
どうやら真月は優一郎が食事を終えるのを待っているらしい。優一郎が顔を上
げると、すっと視線を逸らしテレビに見入ったふりをするが、横目でしきりに優
一郎の食の進み具合を気にしている。なにか遊びにでもつき合わせたいのだろう。
初めは無視してゆっくりと食事を続けていた優一郎だったが、そわそわと落ち着
きのない真月に負けてしまった。いつの間にか「あんたも落ち着きがないんだね」
と美鳥から指摘を受けてしまうほどに、優一郎は食事を急いでいた。
優一郎は三着で食事を終えることとなった。第二着は再会からまだ一度も言葉
を交わしていない音風であったが、こちらは優一郎のようにかき込んで食事をし
ていたのではない。その大半を残したままで箸をおいてしまったのだ。
「ごちそうさまでした」
テレビの音にかき消されそうな小さな声、それがあの夏以来久しぶりに聞いた
音風の声であった。やや遅れて茶碗をおいた優一郎が声を掛ける間もない。ある
いは彼女の方で意識的に避けているのかも知れない。まるで故意ではないかと思
われるほど不自然に優一郎を視界に入れないようにして、音風は立ち上がった。
あるいは本当に故意だったのだろうか。
遠く離れて暮らしていたときならまだいい。だがこれからは近所づきあいもし
ようという従姉妹と、いつまでも気まずい関係でいていいものか。なにか声を掛
けようとした優一郎だったが、それは彼が晩御飯を済ますことを待ちかまえてい
た真月に阻まれてしまう。
「あのね、お兄ちゃん!」
「あ、ああ、なに? 真月ちゃん」
腕にしがみついて来た少女を邪険にも出来ず、優一郎は襖一枚隔てただけの隣
室に消えていく音風を横目で見送った。
「すいそう、気がついた?」
「え、すいそう? 水そうって………ああ、あれのこと」
室内を見回すと、優一郎はすぐに真月の言うものを見つけだした。火事によっ
て前の家にあったものは全て灰になっている。このマンションに移ってから揃え
たという家具は、まだ日の浅いこともあって必要最小限に抑えられていた。靴箱
さえなく、もの寂しい玄関になにやら異彩を放つものがそれであった。
「真月のわがままでね、とんだ出費だわ」
最後に食事を終えた美鳥が、自分と優一郎の食器を片づけながら、少し咎める
ような語調を含めて言う。
「だって、真月とお兄ちゃんのたいせつな思い出だもんね」
悪びれる様子もない真月は、優一郎に向けて首を大きく、横へ傾げて見せた。
「ん、えっ、あ?」
真月の言うことがまるで理解出来ず、優一郎にはどう応えるべきか分からずに
いた。すると。
「ああっ、ひどい。お兄ちゃんったら、わすれてるぅ!」
唇を尖らせた真月に腕を引かれ、優一郎は強制的に立ち上がらされた。そのま
ま玄関先の水そうへと連れて行かれる。
「ほらあ、見てよ」
真月の指し示す先にある水そうは、別段なんの変哲もないものである。ガラス
製ではあるがかなり小振りで、チューブの先にスポンジをつけただけのエアポン
プからは、頼りなさげな泡が吐き出されている。そして中に泳ぐ魚も、その水そ
うに見合う地味なものが二匹いるだけであった。一匹はその赤さに金魚かと思わ
れるが、もう一方は明らかに小型のフナである。
高価な金魚でも、珍しい熱帯魚でもない。だが真月にとっては大切なペット、
いや友だちなのだろう。それは食事を急いでまでも、優一郎に見せたがっていた
ことから窺える。あるいはこの小さな魚の姿が、姉を失うことで負った真月の心
を癒してくれたのかも知れない。生き物を慈しむ気持ちは悪いものでない。むし
ろ好ましいことだと思う。
「可愛いお魚だね」
優一郎自身はたいして興味も持てない魚を軽く一瞥し、真月には笑顔で言って
やる。
「………」
けれど優一郎が笑顔を繕ったのと対照的に、期待を満ち溢れさせていた真月の
瞳があからさまに翳る。
「真月ちゃん………? あっ」
そんな真月に戸惑った優一郎だったが、ふとなにかを思いだし、再び水そうへ
と目を向けた。
よく見れば赤い魚も金魚ではない。フナ………優一郎の知識では断定しきるの
は難しいがヒブナと呼ばれる魚のようであった。
「このフナたちは、もしかしてあの時の?」
もう一度、優一郎は隣にしゃがみ込む真月の顔へ視線を返した。まるで山の天
気のように、また真月の表情が変化を見せる。さながら突然晴れた霧の向こうか
ら現れた、陽光のように。
「うん! 真月とお兄ちゃんとで釣った、おさかなだよ」
冷たい廊下の床板に膝をついた真月。優一郎が思い出したことに満足すると、
さらには両肘をもつき、両手のひらに小さなあごを載せて水そうのフナたちを覗
き込んだ。
「そうか、あの時のフナ、生きていたんだ」
それまですっかり忘れていたのに、優一郎は感慨も深く言う。それは優一郎に
とって、そしてきっと真月にとっても穏やかな時間の最後の記憶。その後刻まれ
た記憶は、悪夢として忘れてしまいたい時間。
「あのね、お姉ちゃんがね」
あごを載せていた片方の手を解放し、真月は人さし指で水そうのガラスをつつ
いた。エサと勘違いしたのだろうか。二匹のフナは真月の指に集まって来た。
「えっ、誰?」
真月の姉は一人でない。「お姉ちゃん」が誰を指すものか分からず、優一郎は
つい、聞き返してしまった。しかし真月の目に光る涙を見て、すぐに後悔するこ
とになる。
「麗花お姉ちゃんがね、守ってくれたの」
表面張力の限度を超え、真月の目から一粒、筋をなして涙がこぼれた。真月は
それを素早く、自分の袖で拭った。優一郎は見なかったふりをする。
「そうか、そうかも………知れないね。ううん、きっとそうだよ」
優一郎も焼け跡となった姉妹の家を見ている。その火の勢いがどれほど凄まじ
いものであったかは、一切が炭と化していたことから容易に想像された。水の中
にいたとはいえ、あの小さな池だ。強い火に炙られればすぐに煮立ってしまうだ
ろう。二つの小さな命が救われたのは奇跡にも等しい。
「だから、この子たちは麗花お姉ちゃんの生まれかわりなんだよ」
「はいはい、そこまで」
その場の空気を一瞬にして変えてしまう声が響いた。麗花を亡くしたいま、姉
妹の家長となった美鳥のものである。
「もうお姉の話はしない約束だよ。ほら、真月、宿題はしなくていいの?」
美鳥の声に、四つん這いだった真月の上半身がバネ仕掛けのようにして跳ね起
こされた。
「ないよ。まだ転校したばっかりだもん。あ、それよりお兄ちゃん、まだ見せた
いものがあるんだ」
あるいは優一郎が百の慰めを連ねるより、美鳥に一言叱咤される方が真月を元
気づけられるのかも知れない。もともと感情の変化に富んだ少女ではあるが、元
気を取り戻した真月が優一郎の手をとって立ち上がる。これが血の繋がりと言う
ものなのだろうか。兄弟のない優一郎はそんな真月たちの関係を羨ましく思った。
「なくったって勉強はしなさい。また前の学校みたいな成績だったら………」
「ああん、分かってるよぉ。お兄ちゃんに見せたらちゃんとするから」
「だーめ。いましなさい」
「あ、真月ちゃん。俺、宿題があるんだ………だからそろそろ部屋に戻ってやら
ないと、ヤバイんだ」
真月がなにを見せたがっているのか分からないが、それほど時間の掛かること
でもないだろう。つきあってやりたいと思う優一郎だったが、亡き姉に代わり姉
妹への責任を一人負う美鳥の言葉を蔑ろには出来ない。あるいは優一郎がこうし
て長居すると自体、迷惑になっているのかも知れない。本当は宿題などありはし
ないのだが、優一郎は姉妹の部屋を退室することとした。
「ほら、こうして同じマンションに住むことになったんだからさ。いつでも会え
るんだし、またこの次に見せてよ」
「うん………分かった」
不満げではあったが、真月はわがままを押し通そうとはしない。素直に頷いて
くれた。
「じゃ、今日はご馳走さま」
優一郎たちの覗き込んでいた水そうは、玄関先に置かれている。わずかに足を
伸ばすだけで優一郎は自分の靴を履き、帰り支度を整えることが出来た。優一郎
の部屋はここより一階上、玄関を出て階段を使っても一分ほどの道程である。
「じゃあね、真月ちゃん」
「うん、ばいばい、お兄ちゃん」
田邊の事件の後とは違う、気軽な別れの挨拶を交わす。優一郎は改めて姉妹た
ちが、距離的も近しい存在になったのだと感じた。
「あっ、こら、優一郎。カバン、忘れてる!」
すでにドアを抜け廊下へと出ていた優一郎の後を、サンダルを足につっかけた
美鳥が追ってくる。
「あ、いけねぇ」
そう言えばマンションの玄関ホールで真月との再会を果たした優一郎は、その
足で直接この部屋を訪れていたのだった。
「まさかその歳で、痴呆症ってことでもないでしょうね」
軽い憎まれ口を吐きながら、美鳥から学生鞄が優一郎へと手渡される。
その瞬間。
「あとで、あなたの部屋に行くから………」
室内に残る、妹たちには届かなかったであろう。一番間近にいた優一郎の耳に
さえ、やっと届くほどの小さな声。
「えっ?」
その意味を問おうと、優一郎が顔を上げたときにはもう遅かった。その言葉を
囁いた美鳥の姿は、冷たい鉄の扉の向こうへ消えていた。